海外投資家への仲介を主とする不動産会社「光ホーム」は、企業方針に「いい加減なものはすすめない、いい加減なことはしない、儲もうかることだけをするのではなく、真にお客様の為になり、社会に役立つ、誇りの持てる会社になること」を掲げる。

この理念は、創業者の奥田和宏社長(「松下幸之助経営塾」塾生)に「不動産業」を一生の仕事と決めさせた壮絶な体験をとおして、その心に深く刻まれた“志”でもあった。

 

志を立てる

不動産会社「光ホーム」は、一九九五年、当時まだ大学に籍を置いていた奥田和宏さんによって、兵庫県芦屋市で創業された。
奥田さんは、インターネットを活用したウィークリーマンション事業のFCおよび直営展開で事業を拡大するなど、常に新たな市場、新たなビジネスにチャレンジし続けてきた。
 
現在は、関東と関西にそれぞれ店舗を持ち、芦屋市の店舗では賃貸・新築物件の紹介、東京都港区麻布十番の店舗では近隣に住む外国人への賃貸物件の紹介、海外投資家への不動産物件の仲介・管理業を営んでいる。
不動産不況の時代にあって、外国人顧客をメインに利益率の高い事業を展開する気鋭の経営者である奥田さんは、取材が始まるとすぐ、人なつこい笑みを浮かべながら言った。
 
「私は、小さいころから『経営者になる』って決めていました」
きっかけは、父親が持っていた一冊の本だった。
 

『道をひらく』で経営者に憧れる

小学生のとき、奥田さんは、父、母、妹の四人で、兵庫県西宮市に住んでいた。
「もともと大手自動車会社に勤務していた父は、若いころから『早く独立して会社をつくりたい』と考えていたようです」
 
父親は、奥田さんが物心ついたころには、一人親方の電気工事業者として、大手住宅メーカーの下請け、孫請けの仕事に従事していた。
「私には夏休みがありませんでした。夏といえばエアコンの取り付け工事の繁忙期で、小学三年生のころから現場に出て、父を手伝っていましたから」
 
奥田さんが、父親の本棚にあった本をなんとなく手に取ったのは、小学五年生のときだった。
「商売人」になることが夢だった父親が学生時代に読んでいた松下幸之助著『道をひらく』の初版本だった。人としての生き方や経営の妙味について平易な文章で書かれた同書は、奥田少年の心をとらえた。そして、自伝など他の著書も次々に手にすることになる。経営者としての松下幸之助の姿もおのずと理解できるようになった。
 
「それまで、私にとって社長とは“偉そうにふんぞり返った人”という印象でした」
そう奥田さんは当時をふり返る。
 
「しかし、みずから率先してトイレを掃除したり、社員を叱ったらあとでフォローを入れたり……そういう松下幸之助さんのエピソードが、すごく記憶に残りました。こういうふうにして会社をつくっていったんだなということが分かると、自然に経営者に興味を持って、そのときから、何をやるかは決まらないものの、とにかく『経営者になる』と思い続けたのです」
 
奥田さんは高校三年生になるまで、夏休みはずっと父親の手伝いで過ごした。しかし、父親はいつまでも続けさせるつもりはなかったのではないか、と奥田さんは想像する。
 
「現場の仕事は、夏の暑い時期に暑いところで、冬の寒いときに寒いところで仕事をします。父はよく『仕事はつらいもんや。汗だくになって働いた代償として、お金がもらえるんやぞ』と言ってました。ですから、電気工事業を継いでほしいとは思っていなかったようです」
 
最初の受験で志望校のすべてに落ちたとき、奥田さんの父親は「受けた大学、全部、落ちやがって!」と厳しく責め立てたという。
「なんとなく、そのときの息子の姿を、経営者になる夢をかなえられなかった若いころの自分の姿に重ねていたのかもしれません」
 
息子に対する父の思いを知る由よしもない奥田さんは、激しく衝突した。
「こんな親父とは、もう一緒にいられない。東京に出たい!」と考えていたとき、ふと、受験勉強で使った『ラジオ講座』の巻末に掲載されていた「新聞奨学生」の募集に目が止まった。
 
「これなら親に頼らず、一人で、東京で勉強できると思いました。今思えば、自立を促してくれていた親父の誘導もうまかった。『五日考えて結論を出せ。それ以上は考えるな』って」
五日間、真剣に考え抜いたあと、奥田さんは決心して、二日後、東京へと発たった。
 

丁稚奉公に似た“新聞奨学生時代”

新聞奨学生として働きながら、浪人生として勉強するのは、想像以上に厳しかった。午前二時四十五分に起床。三時十五分に新聞が到着すると、折り込み広告を挟はさむ。四時前に配り始め、六時に戻り、朝食。八時前に予備校に行き、午後三時五十分まで授業。四時から五時まで夕刊を配り、夕食。翌日の折り込みをセットしてから、集金に回り、一日の仕事が終わる。銭湯で汗を流し、アパートに戻って泥のように眠り、翌日また午前二時四十五分に起床……その繰り返しだった。
 
「いつ予習、復習できんねん!という感じでした(笑)。あまりにも時間が足りませんから、最低限どれだけ勉強すれば合格点に達するかということを全部計算して、新聞を運ぶ自転車に乗っているときにも単語を暗記したり……。集中力とタイムマネジメントは、そうとう鍛えられました」
 
世はバブル真っ盛りだったが、「給料は学費と朝食、夕食、下宿代を引かれて三万五〇〇〇円。そこから風呂代、電車賃、教材や模擬テスト代を出したら、ほとんど残りませんでした」。
 
幼いころから現場で鍛えられていたタフガイの奥田さんも、さすがにくじけそうになった。
しかし、夏休みで久しぶりに実家に帰ったとき、父親に「おまえなあ、親戚全員から『あんな生活してたら大学に受かるわけないやん!』て思われてて、落ちるとバカにされるぞ」と言われた。
 
「それで奮起しました。親父はきっと、意図的に私を怒らせたんでしょうね」
経営者をめざす奥田さんは、志望校である神戸大学経営学部に見事合格した。配達店には一五人ほどの浪人生が新聞奨学生として働いていたが、大学に合格できたのは、奥田さんを含めて二人だけだった。
 
この新聞奨学生の経験が自分の基礎をつくったと語る奥田さんは、照れくさそうに言った。
「この時期は、松下幸之助さんの丁稚でっ ち奉公時代と、ほんの少しだけ似ているかもしれませんね」
 

高い給料が目当てで不動産業に

大学に通い始めてみると、経営学部とはいえ、教養課程の授業は哲学や法律など、実際の経営には役に立ちそうにないものばかりだった。
 
落胆した奥田さんは、勉学よりも働いてお金を得ることに興味を覚えた。運送業、ガソリンスタンド、家庭教師、電気工事、行政書士の事務など、アルバイトに明け暮れる日々を送った。
不動産会社で働き始めたのは、給料が高かったから――それだけだった。
 
ただ、働き始めて分かったのは、不動産業はコミッションセールス(歩合販売)が基本。したがって、賃貸契約が成約しなければ自分の報酬にはならなかった。
「しかも、『おまえは見習いだから、営業に出さない』と言われていました。そうすると余計に、お金を得るためには早く仕事を覚えよう、という気になりました。営業の上手な先輩の商談は、一言一句、漏らさずノートにとって暗記しました。使いっ走りは率先して引き受けましたが、出かけたらただでは帰りませんでした」
 
奥田さんは、先輩から「マンションのカギを返してこい!」と言われたら、物件を見に行き、自分の目で確認した上で、オーナーには『ほかにも物件ないですか』と必ず尋ねた。そうした仕事に対する熱意が、オーナーたちの心を掴つかんだ。
 
「担当エリアが神戸だったので、中国、インド、韓国など、外国人のオーナーがたくさんいました。彼らは、『おまえ、がんばってるな!』と言って、よく昼食や夕食に招いてくれました。そのとき、戦後の神戸の復興に汗を流したときの思い出話を聞かされたんです。みんな異口同音に『焼け野原にはチャンスがいっぱいあった』と語っていました」
 
めきめきと力をつけた奥田さんは、一九九四年八月、独立して不動産業を始めた先輩に引き抜かれるかたちで、四、五人の従業員を抱える阪急岡本駅前の店を任された。
持ち前の機動力を発揮して、奥田さんは顧客をどんどん増やしていった。年が明けると、大学に推薦入学する地方からの学生の需要で、売上が一気に伸び始めた。
 
そして、奥田さんは、兵庫県明石市の自宅で一九九五年一月十七日の朝を迎えた。
 
◆『PHP松下幸之助塾』2015.5-6より
 

 

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