国税庁によれば、日本の企業の約7割が赤字であるという。利潤追求のためにつくられている企業が利益を出せず、法人税を納めていないのは憂慮すべき状態だ。一方、岐阜市の髙井法博さん(「松下幸之助経営塾」塾生)が経営する会計事務所の顧客企業700社は、7割近くが黒字である。

なぜ、髙井法博会計事務所の顧客は黒字の率が圧倒的に高いのか。その背景には、髙井さんの事業に対する熱い志と、長年の研鑽に裏づけられた確かな経営の論理があった。
 

志を立てる

岐阜県トップの会計事務所

JR岐阜駅から車で約二十分。市街地のへりにあたる部分に、TACTタクト高井法博会計事務所(以下、高井会計と略)の本社がある。周辺は閑静な住宅地で、もう一方に目を転ずれば、のどかな田園風景が広がっていた。
三階建ての自社ビル。仕事場のほかに会議室や応接室、図書・情報資料室、茶道・華道の研修に使える和室、カフェを思わせるような休憩室などを備えている。そして最上階には、最大一七〇名が入れる大ホールがある。ここでは、顧客を対象に毎月勉強会が行われたり、各界から著名人を講師に招いて講演会が開催されたりしている。
 
髙井さんは、昭和五十三(一九七八)年の創業当初から、単に顧客の税務・会計業務を引き受けるだけでなく、経営全般にわたってあらゆる面からサポートしたいと考えてきた。
経営者は、常に事業の継続・発展を求められる。そのためには人を雇い、育てていかなければならない。また資金を確保し、効率的に活かさなければならない。どうすれば売上が伸び、安定的に事業を継続できるのか、いつも考えていなければならない。税務や会計も重要だが、それ以前に差し迫った悩みが経営者にはついてまわるのである。それらの問題に応えたいと思った。
 
そうしたことから、行政書士事務所や労働保険事務組合など、次々と関連会社・関連団体を設立し、顧客の幅広いニーズに対応してきた。その数は、高井会計を含めて一二法人におよぶ。また、医師、弁護士、警察官OB、司法書士など、専門分野に通じた有資格者と顧問契約を結んで、さまざまなアドバイスを受けられる体制を構築している。
現在、従業員数は約八〇名。岐阜県下ではトップの会計事務所である。夫婦二人でゼロからスタートした事務所が、県下随一の会計事務所に成長した要因は何だったのか。まずは髙井さんの生い立ちから見てみることにしよう。
 

極貧の少年時代と運命の出会い

髙井法博さんは昭和二十一(一九四六)年、岐阜市郊外(当時)の浄土宗のお寺に生まれる。父親が第五〇代の住職を務めるという由緒ある寺院だった。檀家は少なかったものの、広大な農地を所有し、戦前はそこから納められる小作料で十分に裕福な暮らしができた。
ところが、敗戦によって状況は一変する。占領軍の指令のもと農地改革が進められ、地主制度は解体された。収入源を失った髙井さんの父親は、生計を立てるために慣れない事業に乗り出すも、すぐに行き詰まる。深手を負う前に手を引いたのはよかったが、わずかに残されていた財産もほとんど手放すことになった。
だから、法博さんがものごころつくころには、髙井家の暮らしはたいへん貧しかったのだという。
 
その後父親は教員の職を得て、ようやく細々と生活できるようになった。ところが、喜びもつかのま、ほどなくして父親は胸を患わずらい、療養生活に入る。母親も、激変する戦後社会についていけず、心身ともに落ち込みがちだった。そして、ついには生活保護を受けざるを得なくなった。
貧しい暮らしのなか、法博さんは少しでも家計を助けようと、小学校低学年のころから中学三年まで新聞配達をした。高校に進学できるのかどうか不安だったが、両親は「行かせてやる」と言ってくれた。当時の田舎いなかとしてはめずらしく、両親は大学卒だった。自分たちのせいでわが子が高校にも行けないという事態は、何としても避けたかったのであろう。しかし、髙井家の過酷な運命は、まだ終わらなかった。
 
ある日、法博さんが学校から帰ると、家の前に車が停まっているのが見える。当時、近隣で自動車を所有しているのは造り酒屋と医者の二軒しかない。法博さんは、ひと目でそれがお医者様の車であることが分かった。
あわてて家に駆け込むと、果たして父親が脳溢血で倒れていたのである。四十八歳。医者は「今夜が山です」と言った。親戚や数少ない檀家の人が見守るなか、法博さんもまんじりともせず夜を明かす。
幸い父親は一命をとりとめた。が、この先の進路はますます不透明になってしまった。
 
あるとき、自宅を訪れていた民生委員と県事務所の人と母親との話し声が、隣室にいた法博さんの耳に入ってきた。
「息子さん、卒業後はどこに就職することになりましたか?」
「いいえ、私は高校へやりたいと思っています」
「お気持ちは分かりますけどね。生活保護で面倒をみるのは義務教育までというのが原則です。卒業したら、基本的には働いて家計を支えてもらうものなんですよ」
やはり高校は無理か――。忸怩たる思いがあったが、進学を断念するしかないと思った。
 
翌日、登校するなり担任の先生に「就職先を探してほしい」とお願いした。すると、先生は次の授業を自習にし、法博さんを校長室に呼んだ。行くと校長、教頭、担任の三人の先生が待っていた。
「髙井、お父さんのことはたいへんだったな。でも、おまえは絶対に高校へ行け。オレたちが何とかしてやる。あきらめるな」
そして、奨学金の種類や受ける方法などについて、こんこんと教えてくれたのである。
 
法博さんはそれまで「世の中は不平等だ」と思っていた。生まれながらに貧富の差があって、貧しい家に生まれてきたら、何もかもうまくいかない。行き場のない、やるせない気持ちを両親にぶつけてみたこともある。
 
しかし、このとき自分のために授業を自習にまでして方策を考え、心を砕くだき、親身になって励ましてくれた先生方の姿を目まの当たりにし、人や世間に対する見方が変わり始める。「本当に人に恵まれていました」と法博さんは振り返る。
 
一週間ほどして、また先生に呼び出された。連れて行かれたのが、後藤孵卵場ふ らん じょう(通称、後藤ひよこ)だった。社長らしき人を前に、先生が法博さんの身の上をひと通り説明すると、その人は言った。
 
「分かりました。この子は私が責任を持って高校へやりましょう」
 
その人こそ、法博さんの生涯の恩人となる株式会社後藤孵卵場の創業者、後藤静一氏だった。
 
情熱と利他の心で切り拓いてきた人生(2)へつづく
 
 
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