数々の困難を乗り越えて発展させてきた会社をだれにどう引き継ぐのか。「松下幸之助経営塾」塾生の泉屋酒販における事業・理念継承事例をご紹介します。

 

◆「 酒文化の創造と伝承で人と地域を幸せにする(1) ~理念継承 わが社の場合 」からのつづき

 

勤勉・誠実・思いやりが人を動かし、事業を動かす

土師軍太さんは、一九二九(昭和四)年、久留米の農家に七人きょうだいの末っ子として生まれた。たいへん勤勉な両親で、朝、軍太さんが目を覚ますと両親の姿はなく、すでに田んぼに出て働いているのが常だったという。
 
「朝はご近所より一時間早く仕事に取りかかり、夜は一時間遅くまで仕事をするという毎日でした。私も学校が終わると家には戻らず、その足で田んぼに向かい両親を手伝いました。日が落ちて家に帰っても、すぐに夕食というわけにはいきません。父は馬の手入れ、母は夕食の支度、子どもたちは家の掃除と食事の準備を手伝いました。そして、みんな揃そろって食卓につくのです」
 
父母に指図されてしぶしぶ手伝いをするのではない。子どもたちはだれもが自然に各々の役割を果たしていたのだという。あたたかくも秩序正しい家庭の雰囲気を感じることができる。
 
第二次大戦をはさんで高校を卒業。終戦直後の混乱期は各地で教師が不足し、軍太さんは代用教員として久留米の小学校に勤務する。子ども時代、両親からは「学校の先生の言うことは素直に聞いて、しっかり勉強しなさい」と教えられた。先生といえば世の中で最も尊敬すべき存在だった。今度は自分が教える立場に立つ。子どもたちの模範にならなければと、襟を正して臨んだ。
 
ところが、現実はあまりにもかけ離れていた。食糧難の時代とはいえ、先生方の話題は食べ物のことばかり。教育のためではなく、自分たちの待遇改善のために組合活動に精を出し、子どもたちには自習をさせるという有り様である。思い描いていた教師像が崩れ去り、両親が侮辱されたような気持ちがして、軍太さんは教職を辞する。
 
かわって広島県の建設会社に職を得た。先輩社員のほとんどは始業時間の八時半ギリギリに出社し、九時ごろまではお茶を飲みながら新聞を読んでいた。人様より早く起きて働く両親の背中を見て育った軍太さんは、朝七時過ぎに出社し、掃除や水撒まきをして、出社してくる先輩社員を出迎えた。仕事上の言葉づかいや、電話のむこうの見えないお客様にも頭を下げる様子など、先輩社員のよいと思うところを見習うようにした。
 
二年ほどたって、尾道の対岸にある向島の中学校の建設現場に、工事主任として赴任することになった。赤字を承知で会社が落札した案件だった。軍太さんは経費削減のために自分の給料返上で働くことを申し出る。「どうやって生活するんだ」と尋ねる社長に、「工事期間中に食べる米だけ用意してください」と答えたという。両親の生活は、自分たちで米と野菜をつくり、それを食べて暮らすというもので、お金で何かを買っているという姿を見たことがない。暮らしていくのにお金が必要という感覚はなかった。
 
向島では、朝起きると海水で顔を洗い、歯を磨き、仕事が終わるとまた海の水で体を洗った。軍太さんの工夫はここから始まる。工事現場で出た木くずを拾い集め、炊きもの用として地域の家庭に配って歩いたのである。みな燃料を手に入れるのに苦労していたから、大いに喜ばれた。そして、
 
「畑で採れた野菜じゃ、持って帰り」
「魚獲れたけん、持っていき」
「海水じゃ大変じゃろう、うちで風呂入ってけ」
 
と気遣いを受けるようになった。給料がなくても、まったく生活には困らなかった。
 
さらに、お世話になったお礼にと、屋根瓦のずれを手直ししたり、勝手口の引き戸の滑りをよくしたりしているうちに、「子どもの勉強部屋をつくってほしい」「物置をつくってほしい」など、今でいうリフォームの仕事を受注するようになった。結局、これによってもともとの工事の赤字が埋まり、黒字に転換してしまったのである。
 
「人様のお役に立ち、喜ばれることをすれば、必ず信頼されるようになり、いい人間関係を築くことができるものです。向島での経験で、私の人生の基礎ができたのではないかと思います」
 
と軍太さんは振り返る。
 
工事が終了し会社に戻ると、社長は工事期間中の給料を全部金庫に保管してくれていた。そして、赤字案件を黒字化した功績が認められ、特別賞与まで出してくれた。これらは、のちに独立資金の一部になった。
 
 
 
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