【理念継承 わが社の場合】数々の困難を乗り越えて発展させてきた会社をだれにどう引き継ぐのか――。松下幸之助経営塾塾生の「事業継承(承継)」事例~タクミホーム~をご紹介します。

 

社員は家族 会社は地域の拠り所(1)からの続き

 

理念継承 わが社の場合

住宅は流通する資産である

もともと自分の力を試すためだったこともあって、大手ハウスメーカー勤務三年を経て、昌義さんは退社の道を選んだ。そして八戸に戻ると、大東企画不動産を衣替えし、タクミホームをスタートさせる。
長年商売を続けている木村家だが、一般住宅の施工販売はあまりしていなかった。独自に設計を学び、建材の仕入れから現場の手配まで、最初はすべて昌義さんと妻の麻子さん、他に社員一名の計三名で切り盛りした。
 
住宅事業は、資材調達や施工の費用は先に出ていくが、資金を回収できるのは完成後である。資金繰りはおのずと厳しくなりがちだ。そこで昌義さんは、資金回収を早くするため、さまざまな面から対策を講じた。
 
回収の長期化は、工期が長いことが要因である。したがって、施工を短くするために徹底的に手を打っていった。たとえば、一人親方の大工に頼むと、どうしても親方のスケジュールに工期が左右される。そこで、五、六人のチーム制にして、タクミホームが工期をコントロールできるような仕組みをつくった。
 
また、地元の有力建材商社にOEMでプレカット(施工前加工)を行なってもらうことにより、建材の品質・納期の管理もできるようになった。材料の加工法については、昌義さんみずからもアイデアを出した。木材にあらかじめマーキングをすることで、現場の作業時間を大幅に短縮させたのはその一例である。
 
そして、供給する住宅コンセプトを明確にした。昌義さんの考えは、「住宅とは流通する資産である」ということだ。一般に、住宅を購入すると言えば「夢のマイホーム」を手に入れることであり、そこかしこに〝こだわり〟や〝個性〟を表現した家をイメージしがちである。しかし、昌義さんは「そのような夢のマイホーム像は間違っている」と言う。ある人のかたよった好みでつくられた家は、別の人にとってはきわめて住みにくい家になるからである。
 
よく「家は一生もの」と言われるが、家族構成やライフスタイルは、年月を経るにしたがって変化するものだ。家族が増える時期もあれば、子どもが成長し勉強部屋が必要になる時期もある。やがて子どもが独立し家を出れば、今度は部屋数は不要になる。ほんとうは、その時々の家族のステージに合わせて、いちばん使いやすい家に住み、ステージが変わればまた新しい家に住み替えるのが理想的だ。そのとき、多くの人にとって使いまわしのしやすい家であれば、買い手がつきやすい。すなわち「流通性の高い家」となるのである。
 
一方、オーダーメイドでつくってしまうと、その時点のその家族にとってはお気に入りの家になるかもしれないが、ニーズに合わなくなったときに買い替えようと思っても、個性的な家ほど売りにくくなるのだ。つまり「流通性の低い家」になる。
 
したがって、タクミホームが扱うのは建売分譲住宅が中心である。4LDKのオーソドックスな間取りで、中心価格帯は二〇〇〇万円台の前半。子どもが生まれた若い夫婦でも無理なくローンが組める範囲である。
 
「流通性」を重視するからには、実際にその家が資産としての価値を持たなければならない。タクミホームでは住宅の買い取りや、リフォーム、中古住宅の販売も積極的に行い、住宅の流通性を促進するよう努めている。
 
一時的な「夢」の実現ではなく、住む人のトータルな人生設計を見据えた住宅販売は、次第に地域の人びとに支持され、地域からの信頼を得ることにつながっている。
廃墟となったニュータウンを再生
 
その一つの象徴的な事業として、多賀台た が だいの再開発が挙げられる。
多賀台は、高度経済成長期に八戸市郊外に造成されたニュータウンである。当時、大手製造業が次々と八戸に進出し、そこで働く人びとの住居が必要になった。東に太平洋、西に八甲田山を望む高台に多くの独身寮や社宅が建ち並び、町は活況を呈していた。しかし、四十年を経て、その様相は一変する。社宅の多くが空室になり、少子化で幼稚園も廃園に追い込まれた。
 
ゴーストタウンのようになってしまった多賀台を何とか復活させてほしい――地元企業と地域住民の切実な声がタクミホームに寄せられた。四万一〇〇〇平米の大規模開発は、社運のかかる一大プロジェクトだったが、町の再生のために昌義さんはリスクを承知で引き受けることにした。
 
結果は、分譲が始まると同時にみるみる契約が決まり、第三工区までほぼ完売。現在、第四工区の開発が進められているところである。
 
住民が望んでいるのは「町の再生」だった。住みやすくてリーズナブルな住宅を建築・販売するだけでは足りない。公園や遊歩道を整備したり、桜並木を植えたりするなど、周辺環境も整え、人が住むのに魅力を感じる町づくりに努めた。結果、新しい多賀台は子育て世代の心をつかみ、学区内の小学校に通う児童の数は一六三名に増加した。保育園や公園では、活発に遊ぶ子どもたちの姿を目にすることができる。
 
高度経済成長を支え、一つの役割を果たし終えた町が、二十一世紀になり新たに生まれ変わったのだった。
 
社員は家族 会社は地域の拠り所(3)へ続く
◆『PHPビジネスレビュー松下幸之助塾』2013年11・12月号より
 
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