【理念継承 わが社の場合】数々の困難を乗り越えて発展させてきた会社をだれにどう引き継ぐのか。松下幸之助経営塾塾生の「事業継承(承継)」事例~新宮運送~をご紹介します。

 

理念継承 わが社の場合

清掃活動にも熱心 地域に愛される企業

「播磨の小京都」と称され、しょうゆ、そうめん、皮革の地場産業で知られる兵庫県たつの市。JR姫路駅から在来線に三十分ほど乗ると、同市の新宮町にたどり着く。その町で半世紀以上にわたり運送業を営んでいるのが新宮運送だ。
 
多数のトラックを収容する広い敷地の周辺には、大きな建物もなく、のどかな風景が広がる。運送会社というと、トラックの出入りする音で騒々しいイメージがあるが、平日午後という時間帯のせいか、非常に静かだ。
 
事務所に入ると、社員の方々が笑顔のあいさつで迎えてくれ、だれもが礼儀正しい。また、事務所内はチリひとつ落ちておらず、清潔感にあふれている。ちなみに新宮運送は、社屋内のみならず会社周辺の清掃活動まで活発に行なっていて、地域住民に喜ばれているという。
 
昨年、創業五十周年を迎えたが、そんな地域の模範となるような会社にすぐに育ったわけではない。創業者で現会長の木南岩男さんが猛烈な努力で会社経営を軌道に乗せ、長男で二代目の木南一志社長が岩男会長の精神を受け継ぎつつ独自の哲学で経営を深化させてきた結果、現在の新宮運送がある。
 
会長室と社長室のあいだの扉はたいてい開かれているように、両者間のコミュニケーションは活発な一方、社内では一志社長が岩男会長に対し一度も「親父」と呼んだことがないように、父子だからと甘えない関係にあることが、同社の健全な経営を実現しているのだろう。
 

32歳のときに創業 妻の支えも大きな力に

先にも述べたように、新宮運送の創業は五十年以上前にさかのぼる。一九六二(昭和三十七)年、岩男会長が三十二歳のときだ。同氏はそれまで安定した収入源もなく、苦しい生活を送っていた。父を早くに亡くし、母に育てられたが、終戦後の一九四七(昭和二十二)年、十七歳のときにその母が吐血する。胃かいようだった。
 
当時進学校の旧制龍野中学を卒業し、いよいよ人生がひらけようとしていた。しかしそれから三年、七キロほど離れた医者まで母を自転車で送迎する日々を送ることに。その間、同級生は大学まで進学したり、代用教員になったり、そのほか就職して給与を安定的に得られる身分になっていた。母の健康状態はやがて回復したものの、すでに就職の機会を逸し、取り残されたような寂しさを覚える。
 
トラック運転手の仕事が人生の転機となった。一九五六(昭和三十一)年、二十六歳のときに結婚。妻の父が「一緒に仕事をしよう」と誘ってくれたのが、運転手の仕事だった。さっそく自動車免許を取得し、四トントラックを運転するようになる。
 
しかし、このまま妻の父に甘えているわけにもいかず、運送業者として独立しようと決意。ただ、運送業を始めるには陸運局(当時の運輸省の地方支局)の認可が必要だった。当時はなかなか認可が下りないといわれ、要件を満たすには、トラックを少なくとも三台保有しなければならなかった。ところが、トラックを購入する資金があるはずもない。信用金庫の支店長や親類、知人に頭を下げてまわり、どうにか購入費を工面することができた。
 
トラックを三台そろえて陸運局に申請すると、なんと一発でパス。兵庫県の揖保郡(当時)で、小さいながらも運送業を始めた。揖保郡といえば、そうめんの「揖保乃糸」で知られる。富山や石川や新潟などの北陸方面、そして岐阜や愛知や静岡などの東海方面などにそうめんを運ぶ仕事が舞い込み、出足は順調だった。
 
しばらくして、姫路に石油化学工場が進出し、大手運送会社の下請けの仕事が入ってくる。一生懸命仕事をしていたら、下請けではなく、直接に運送の依頼もきた。時代は高度経済成長期。工場の拡張が進むにつれ、トラックの台数が当初の三台からどんどん増え続け、十年で三〇台を超えた。さらに自動車整備工場もつくり、民間車検ができるようにした。「昭和四十年代はほんとうに順風満帆、考えられんような成長をさせてもろうた」と岩男会長は述壊する。
 
新宮運送の発展の裏には、岩男会長の妻の支えもあった。経理の仕事を担当していたほか、運転手が夜間でも中長距離の仕事に出られるよう、日々弁当や食事の用意までしていた。当時は高速道路も十分に整備されておらず、コンビニなどもまだなかった時代。運転手にとって、弁当や食事に困らないことは、なによりありがたかった。
 
しかし、会社経営が軌道に乗ったころ、妻が乳ガンだと診断される。診察をした神戸大学医学部附属病院から来るように呼ばれ、医師に面会すると、「手術はするけれども、命がもつかどうかは分からない」と言われた。
 
それから妻の病室に通い続ける毎日。同じフロアの患者が次々と亡くなっていくのを目の当たりにし、夕方の帰路でいつも、「(妻は)明日も元気だろうか」と、心配で頭がいっぱいになる。
 
結局、妻の手術は成功。その後、八年通院したが、ガンの再発はなかった。ただ、その八年を通して、岩男会長の人生観が変わる。「カネ儲もうけだけじゃない。世のため人のためにがんばらなあかん」との思いが強まり、社会活動に力を入れ始めた。その実績が認知され、岩男会長はいまや「全国商工会連合会理事」「近畿府県商工会連合会連絡協議会会長」「兵庫県商工会連合会会長」「兵庫県共済協同組合理事長」などの要職を務めている。
 
ただ、二〇〇〇年代に入ると、社会奉仕活動で知られるライオンズクラブの地区ガバナー(代表責任者)として多忙になり、社長としての仕事との両立が困難になった。また、年齢も七十歳近くになったことから、社長の座を長男の一志さんに譲ることにした。
 
◆『PHPビジネスレビュー松下幸之助塾』2013年7・8月号より
 
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