初期のPHP活動において、和歌山は松下幸之助がもっとも多く足を運んだ場所の一つでした。自身の故郷への関心が、PHP活動においても高かったことがうかがえます。

 

 昭和22(1947)年4月2日、和歌山県庁参事会室で開催された第127回PHP懇談講演会で、幸之助は「講師」を務めました。参加者は「和歌山有力者」計30名でしたが、この時は折りあしく当地における市長選挙などと重なったため、「各選挙のため参集状況悪し」と記録されています(懇談会記録綴)。
 仕切り直しとなった和歌山での活動は、昭和24(1949)年4月28日、「和歌山天理教教務支庁(和歌山市小松原五丁目)」(友の会本部日誌)で開催された、和歌山宗教連盟懇談会で再開されます。幸之助はこの連盟による招きに応じて、「PHPと宗教」という題で講話をしました。

 その後、同年5月12日、幸之助が不在の折りに和歌山市長の高垣善一氏(上写真)がPHP研究所を訪れました(※2)。やがて同月28日、和歌山市役所2階で、PHP友の会・和歌山支部結成式が開催されます(友の会本部日誌)。高垣氏の招きにより、幸之助は市役所と和歌山商工会議所で講話をし(活動経過報告書)、同年6月1日、名刺を交換したすべての人に礼状を送りました。高垣氏へ送った礼状によると、高垣氏はPHP友の会・和歌山支部長に就任しています(所長発信簿)。
 同年6月28日に、和歌山市消防署別室で開催された和歌山支部第2回懇談会において幸之助は講話をし(活動経過報告書)、同年7月28日、和歌山商工会議所で催された「和歌山清和クラブ」の会合では、同クラブ会員と交流を深めました(活動経過報告書)。
 また、大阪や東京における和歌山県人会でも、幸之助の活動が確認できます。昭和23(1948)年1月16日、大阪の「戎橋森永」で開催された和歌山県人会例会において、幸之助は「個人の資格」で講話をしました(活動経過報告書)。昭和24(1949)年7月12日、ホテル東京で催された東京和歌山県人会懇談会では、「PHPの人間観」と「政治、教育、経済、宗教」について話をしています(友の会本部日誌)。

 


1)福田紀市編集・発行『薫る橘―和歌山県人材録―』(1964年)15頁。

2)『PHP友の会本部日誌 昭和23年1月1日起』129頁。高垣氏は、昭和22(1947)年4月に初当選してから、昭和41(1966)年5月に急逝するまで20年近く和歌山市長を務めており、大阪の和歌山県人会である「音無会」の特別会員でもありました。