『PHP』の編集長を長く務めた錦茂男所員は、研究所の初期の活動において、「PHP劇団」をつくって、理念を「芝居で見せよう」という構想があったと述べています(※1)。一見すると意外にも思える逸話ですが、初期のPHP研究所は、さまざまな形で劇団や演芸と関係がありました。

 

 もともと松下電器の社内では、定期的に「演芸大会」が催されていたようです。松下幸之助は、昭和21(1946)年11月9日、松下電器社員に向けた講話で、社外の人が松下の「演芸大会」を見て称賛し、「松下は何をさせても出来る、興行師をさせても成功するに違ひない」と評価したことを紹介しています(※2)。昭和22(1947)年1月15日、松下電器社内で開催された新年会では、PHP研究所所員が「PHPヴライテー(=バラエティー)」を演じて好評を博しました(業務日誌)。


 同年6月21日に東京で開かれた文部省官僚との懇談会で、幸之助はPHP理念の普及方法として、「農村方面には劇団をもってゆこうかと思ってゐます」(※3)と言っています。これを受けてある官僚は、農村の青年が、観劇するより自分たちで劇を演じたがっていると述べ、文部省で脚本を出版したら大変好評であったことを紹介しました。幸之助はPHP研究所でも「いゝ脚本を提供して、与へるのはいゝですね。考へたいと思ひます」と応じています(※4)。

 

 また、同年4月20日、関西自立劇団協議会主催の第一回自立演劇コンクールに所員4名が参加しており、「白い道」という題目を演じて「演技賞を受く」という記録があります(業務日誌)。関西自立劇団は、同年の『PHP』10月号を150部購入していました(※5)。昭和23(1948)年1月14日の新年会では、所員が歌舞伎座において「新生新派」の演劇を鑑賞し、劇団員と「心から和やかに親睦を深めた」とされています(友の会本部日誌)。

 

 今日、「PHP劇団」が正式に設立された記録は確認できませんが、当時はPHP理念の普及のために、演劇も含めた多くの方法が検討されていたようです。

 


1)《速記録》№4401、112頁。昭和44(1969)年1月6日、「研究会」における発言。

2)『所長講演録 昭和21年』「演芸大会ヨリ得タルモノ」より。原文はカタカナ。

3)『東京PHP運動概況報告』349頁。

4)同上351頁。

5)「10月号雑誌配布表」『PHP所史』ファイル昭和22(1947)年3-3、38頁所収。