Q67:幸之助の以下のエピソードで当てはまるものは?

太平洋戦争まっただ中の昭和18(1943)年4月、松下電器は軍からの要請であるものの製造を請け負います。それは次の3つのうちどれだったでしょうか?

 (1)戦車

 (2)船

 (3)爆弾

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解答&解説コラム

 (2)が正解です。

 太平洋戦争が本格化し、船舶不足が生じていた当時、松下電器は軍から木造船を建造するよう求められます。幸之助は造船など畑違いで引き受けられないと訴えたのですが、断りきれず、昭和18(1943)年4月、松下造船(株)を設立、製造を開始しました。

 

 ラジオ製造のベルトコンベア・システムにヒントを得て、流れ作業方式を採用。全体を8工程に分け、海に向かって敷かれたレールに船台を乗せて各工程を順に移動し、最後の工程がすむとそのまま進水させるという画期的なものでした。昼夜兼行で製造に当たり、その年の12月には第1号船の進水に成功、終戦までに56杯の木造船がつくられました。

 

 幸之助はまた、海軍の航空本部長から直々に呼び出され、木造飛行機の製造も要請されます。これには幸之助も驚き、とても自信がないと固辞したものの、再三の説得を受け、最終的に軍の要請に従うことにしました。

 

 昭和18年10月、松下飛行機(株)を設立して製造に取りかかりますが、木ネジ一つそろえるのにも苦労し、滑走路もセメントがないので漆喰で固めざるをえないといった状況でした。漆喰の滑走路はセメントでつくるよりも5、6倍の費用がかかったといいます。それでも1年あまりで何とか試作機の完成にこぎつけ、昭和20(1945)年1月、第1号機を飛ばすことに成功、3機を製造したところで終戦を迎えました。

 

 後年、幸之助はこれらの体験について、「たとえ未経験の分野でも、全員が一体となって死ぬ気でやればできるものだ」と語る一方、戦争協力をしたことについては「若気の至りであり、やるべきではなかった」とも述べています。