幸之助は九歳のとき、単身大阪に奉公に出たが、最初の奉公先は、八幡筋の宮田火鉢店であった。親方と何人かの職人が火鉢をつくり、それを店頭で売るという半職半商の商店で、ここで、朝早く起きて、拭き掃除をしたり、子守りの合間に火鉢を磨いたりするという小僧生活が始まった。
 幸之助は故郷で困窮した生活を経験していたので、仕事そのものはそれほどつらいとは思わなかった。しかし、故郷を離れた心の寂しさには耐えられず、夜、店が閉まって寝床に入ると、母親のことを思い出して涙をこぼす日が続いた。
 

 奉公を始めて半月あまりたったある日、主人が、「ちょっとおいで」と幸之助を呼んだ。そして「ごくろうさん、給料をあげよう」と言って、五銭白銅を手渡してくれた。故郷では、母に一厘銭をもらい、近所の駄菓子屋でアメ玉を二個買うのが楽しみだった幸之助にとって五銭は大金である。
 “たいへんなお金をくれるのだなあ”と、初めて五銭白銅を手にしたうれしさに俄然元気が出て、それからは“母恋し”の泣きみそもすっかり治ってしまった。
 それから八十年もたった九十歳のころ、「今まででいちばんうれしかったことは」と問われて、幸之助はこのときの五銭白銅の思い出をあげている。