LINEなどメッセージアプリの参入により、熾烈な競争を繰り広げつつ、ますます進化し続ける電気通信事業――。松下幸之助が生きた時代の最新の情報伝達手段といえば、固定電話でした。
毎年5月は、新しい環境に慣れつつも、期待と不安が交錯する毎日を過ごしている方も多いことでしょう。これからどんな運命が待ち受けているのか――。松下幸之助は運命論者ではないと言いつつ、一方で人間の「運」の強さというものを重視していました。
桜が咲き、舞い散る季節は、昔から「春眠暁を覚えず」というように、身も心も緩みがちな時期でもあります。心を引き締め、日々の生活習慣にも一層気をつけ、仕事・学業に臨みたいところですが、松下幸之助はどのように日常を過ごしていたのでしょうか。
これからの日米関係はどうあるべきか――。 松下幸之助が生きた時代、アメリカは日本にとって、戦勝国であり、目標であり、最重要国家でしたが、松下自身はアメリカをどう視ていたのでしょうか。
アベノミクスによる日本経済復活のカギとなる「賃金」。 かつて「高賃金・高能率」を経営方針に掲げた松下幸之助は、どのような「賃金」観をもって経営にあたっていたのでしょうか。
失敗を自らの成長の糧にする。誰もが思うように、松下幸之助もそうありたいと願いました。成功すればそれは運のおかげ、失敗は自分のせいと考え、事あるごとに反省をくり返しました。さらには成功のなかにも、小さな失敗があると考え、その失敗をも自らに生かすよう心がけたのです。
頻発する食品・食材の偽装表示。
この「偽装」を取り締まる法律といえば不正競争防止法です。
意図的な偽装は「不正」競争を横行させる経営活動なのです。
松下幸之助は市場競争のなかからイノベーションが生みだされると認識していましたが、その競争はあくまで「正しき闘争」でなければならないと社員に強く訴えていました。
自然災害の恐ろしさを実感せざるをえない状況が続いています。
松下幸之助は、自らの経営においては、被災すれば「こけたらたちなはれ」の気概でその対処・対策に臨み、被災された取引先や顧客には、できるかぎりの援助をする姿勢を大切にしましたが、国家・政治への憂国の提言も数多くしていました。
(2013.10.25更新)
2020年のオリンピック開催地が東京に決定しました。1964年以来、じつに半世紀以上の月日が流れたことになります。そのころの松下幸之助はというと、1961年に松下電器(現パナソニック)の社長を退き、自らの思想・哲学の深耕に精を出しはじめていました。しかしこのオリンピック開催という、経済拡大を期待させる国家的イベントに日本が沸き立ったころ、松下幸之助、さらには日本の家電業界は、厳しい経営環境に晒されていたのです。