毎年5月は、新しい環境に慣れつつも、期待と不安が交錯する毎日を過ごしている方も多いことでしょう。これからどんな運命が待ち受けているのか――。松下幸之助は運命論者ではないと言いつつ、一方で人間の「運」の強さというものを重視していました。
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1979年、松下幸之助は次代のリーダー養成のために松下政経塾を設立しましたが、塾生の採用にあたり、「運の強さ」をみたといわれています。また松下自身は、「失敗は自分のせい、成功は運のおかげ」と考えるようにして、つねに謙虚さを保つよう努力していました。
松下が自らの強運体験としてよく語ったのが、若い時分にセメント会社の臨時運搬工として働いていたとき、通勤に利用する蒸気船から海に転落したことです。幸いにも溺れずに助かったことから、「自分は運が強い」と考えるようになりました。
松下の人生を眺めてみると、他にも好運だったと思われる体験がたくさんあります。父親が米相場で失敗して一家が没落。そのために丁稚奉公に入らざるを得なかったものの、結果として、商売のイロハを身につけ、人情の機微にも通じることができた。事業をはじめてからも、お金がなかったから、一歩一歩着実に計画を立て、お金を生かして使わざるを得なかった(つまり自立経営の大切さを自然に体得できた)、等々。数えあげればキリがないほどですが、その経営人生の出発点となる独立当時の「仕事運・事業運」はどうだったのでしょうか。半生伝『私の行き方 考え方』に当時の心境が綴られています。
さあ!! ソケットの製造だ。しかし、この時の私の手元にある資本金は、七年間勤めた退職慰労金としての四十日分、すなわち当時の日給八十三銭として合計三十三円二十銭と、会社の積立金四十二円との合計七十五円二十銭、ただこれだけだ。そのほかに手元の貯金が二十円余りあったが、それでも百円に満たない金であった。これでなにができるだろう。機械一台買っても、型一つこしらえても百円はいる。静かに考えるとできる話ではない。こんなことは無謀なことである。しかし私はその時は無謀とは思わない。前途の光明にからだじゅうが奮っているという状態であった。
(『私の行き方 考え方』より)
前途洋々、意気盛んな青年の姿が目に浮かびます。しかし現実は厳しく、吹けば飛ぶような小さな町工場は経営難に苦しみました。ようやくできたソケットも「百個ほど」売れただけで、商品としての価値がないことを思い知らされます。資金を使い果たし、日に日に窮状はつのるばかり。けれども松下は、諦めようとしませんでした。
自分はどうしてもこの仕事に見切りをつけるという気分になれなかった。あすからの資金もなくさしあたりこの行き詰まりを打開する道がないように思われても、不思議にほかの仕事をやろうという気分にはなれなかった。今思うと、あの時、心の底のどこかにこの仕事が成り立つという安心でもあったのか、心配をしなくてはならない、不安焦慮をしなくてはならないという立場にありながら、心は改良の仕事、器具の製作ということのみに熱中したものである。とても常識では判断できないような状態であった。もちろんこの間には全く困って、自分の着物も家内の着物も質屋に入れたことはいうまでもない。
そうこうするうちに、年の瀬もいよいよ押し迫ってくる、収入の道はない、改良の仕事は資金の関係で思うようには運ばない、というありさまであったが、十二月にはいって思いがけなくもA電気商会より扇風機の碍盤一千枚の見本注文を受けたのであった。これは、川北電気で、従来、扇風機の碍盤を陶器で作っていたが、破損しやすい関係から、煉物で作ることになり、その見本注文を杉村工業所――今はなくなったが――が引き受けたのをA電気商会を通じて注文がはいったもので「非常に急ぎの仕事で、翌年の扇風機に使って結果がよければ、年に二万なり、三万なりの扇風機に全部応用する、という見込みのある注文だから、ソケットの製作などはあと回しにしてでもこれを先にして、精神を打ち込んでぜひ年内にやってくれ」とのことであった。(同上)
運が飛びこんできたのです。松下はその運を確実につかみ、生かしました。碍盤製造のために、我武者羅に仕事に没頭した様子が同書に記されています。そしてこの仕事を通じて、取引先からの信頼を得、さらなる仕事を獲得していくことになったのです。のちに大企業の経営者となった松下は、多くの人々に求められ、人生や経営について語り、執筆するようになりましたが、運や運命といったテーマは欠かせないものでした。同書にも、「運」という言葉は使われていませんが、みずからの「道」を切りひらくうえでどのような行き方・考え方が必要なのか、その見解が示されています。
今思うと、すべて物はこういう形においても成り立っていくのではないかと思う。なかなか予期したとおり、たてた方針どおりになりがたいものである。よく「辛抱せよ、辛抱せよ」というが、辛抱しているうちに、たとえそのことが成り立たなくとも、周囲の情勢が変わってきて、そこに通ずる道ができるとか、またその辛抱している姿に外部からの共鳴、援助があるとかして、最初の計画とは大いに相違しても成功の道に進み得られるものであると思う。
ちょうど、碍盤の仕事にしても、ソケットを持ち回って売れないのを悲観せず、なお苦心を続けておったことが、やはり碍盤の注文を得るもとになっていたものと考えられる。だから、ものに強い執着をもって、決して、軽々しくそれをあきらめるということをしてはならないと思う。しかしまた、頑迷であってはならない。いつでも他に応ずる頭を働かせねばならない。辛抱とか、執着とかだけでもまたいけないものであると思う。ここが非常にむつかしいところである。
(同上)
松下がいう「ここが非常にむつかしいところ」を悟ることができれば、運を呼びこめるようになるのでしょう。ただそうした考えを巡らすまえに、見過ごしてはならないことがあります。それは松下が、自らの信じた道を歩むなかで、苦境にあっても決して諦めずに創意工夫を重ねていたことです。そして運が舞いこんできてからも、現状に満足せず、たえず日に新たな思いをもって、前向きに生きる努力を懸命に続けたということです。その松下の道程が、強運を呼びこむ人生の前提条件であったことを心に留めておくことが大切ではないでしょうか。
PHP研究所経営理念研究本部