これからの日米関係はどうあるべきか――。 松下幸之助が生きた時代、アメリカは日本にとって、戦勝国であり、目標であり、最重要国家でしたが、松下自身はアメリカをどう視ていたのでしょうか。

(2014.3.25更新)

 

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 太平洋戦争終戦後の日本人にとって、戦勝国アメリカはどんな存在だったか。1950年、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による経営上の各種制限がほぼ解かれ、事業に全精力を傾けることが可能になった松下幸之助は、当時の社内報「松下電器時報」にこんな風に書き綴っています。

 

 アメリカには論争はあるけれども反目はない。政党はあっても徒党はない。明朗素朴な国民性と徹底した合理主義によって築かれたアメリカ精神は、是を是とし非を非とする強い意志によって、時に痛烈な批判論戦を生むが反面一転して釈然とした協調を見せ、派閥感情によって真実に眼を覆うようなことがない。日本の不幸は、正邪の判断が事実よりも感情によって左右されたところにあり、人は人に繋がり人を中心として徒党が組まれ、純理と公正に反した派閥が世の大勢を支配し国の行動を決するに至ったことである。この両者の差が、一は建国以来ゆるぎない繁栄を築いて来たアメリカとなり、一は日本の現状をもたらしたとも言い得るのであって、組織の中に派を立てることの弊はすでに極めて明らかなところである。

 

 その後まもなくして、松下は初渡米しますが、この認識は的を射たものでした。アメリカの繁栄ぶりに、みずからの理想とする社会の姿=「PHP(物心両面の繁栄を通じて平和と幸福を実現)」がおおむね具現化されていると感じたようです。感動と驚きに満ちた体験を松下は社員と共有すべく、現地から日本へ通信。その文面には「光、光、光」と書かれていました。街頭の商品広告が「ネオンよりも電球を多く使い、平面でなく立体的」だと感じ、アメリカの広告技術の素晴らしさに刺激を受けたのでした。また当時のアメリカ国民が「ノウ・ハウ」の重要性を強く認識していることを知り、松下電器にもその文化を根づかせたいと思ったことなども書き記されています。心してみれば万物すべてわが師なりと説いた松下は、アメリカ滞在中もその繁栄ぶりがなぜ生まれたかを自分の眼と頭でとらえ、見定め、そこに日本の生きる道を見いだそうとしたのでしょう。1963年1月のある講演の場では、当時を振りかえり、学び得たこととして、とくに以下の2点を取りあげています。

 

(1)2度の世界大戦を経ても、アメリカのメーカー(ユニオンカーバイトという会社)の乾電池の売値が、約30年間変わっていない。

・その経営を支えたのは「ダム」経営である。アメリカには需要にこたえるだけの企業の供給設備が豊かにある。「ゆとり」がある。

・日本は需要供給のバランスがうまくとれていない。それはダムが不足しているからだ。

 

(2)民主主義が一番徹底しているアメリカが、一番繁栄している。

・アメリカのように民主主義になりきったなら、適材が適所に立ちやすい社会になる。各人の特質や能力が生かされ、「ムダ」がなくなり、繁栄が生みだされる。

・封建主義や年功序列などで適材適所が徹底されず、まだまだムダが多い日本は、民主主義の良さを殺してしまっている。

・本来、カネと時間がかからないのが民主主義。民主主義イコール繁栄主義であり、繁栄に結びつく尊いものだという考え方を日本人は根本にもつべきではないか。

 

 そしてこのころ、1960年代はというと、松下電器をはじめ多くの日本企業の海外事業が躍進した時代であり、日本経済が国際社会の一員として、貿易の自由化、開放経済体制に大きく踏みだしたときでした。

 

 昭和36年(1961)ごろであったか、私が松下通信工業へ行ってみると、ちょうど幹部が会議をしていた。「きょうの会議はなにかね」と聞くと、「実はトヨタ自動車さんから大幅な値引き交渉がありました」と、困ったような顔をしている。事情を聞くと、松下通信工業から納めているカーラジオの値段を、即日5パーセント下げて、向こう半年間でさらに15パーセント下げ、合計20パーセント下げてほしい、という要求である。なぜトヨタさんがそんな要求をしてきたのかというと、それは貿易の自由化に直面しているから、アメリカなど海外の自動車と太刀打ちするには、今の値段では日本の方が高くて、とてもやっていけない。日本の自動車産業がほろんでしまう。だから必死で原価引き下げに努力しているが、松下通信工業から納めているカーラジオも部品の一つだから、これもぜひ20パーセント値下げしてほしいということである。その当時とちがって今日では、むしろ日本の方が安くてよい自動車をつくれるようになっているから、ピンとこない人もいるかもしれない。が、その当時はこのように日本の方が苦しい状況だったのである。(中略)

 

 そこで私はみんなに、次のような指示をしたのである。「性能は絶対に落としてはいけない。デザインも先方の要求に応じて、変えてはならない。その二つを維持する限り、こちらとしては全面的に設計変更してもよいわけだ。だから、そういう条件を守りつつ、20パーセント引いてもなお適正な利益のあるように、根本的、抜本的な設計変更をしていこう。それが完成するまでの間は、一時的に損害が出てもしかたがない。これは単にトヨタさんから値引き交渉を受けたというだけのことではない。いわば日本の産業を維持発展させるための公の声だと受けとめなければならない。なんとしてでもこれをやりとげよう」。

<『決断の経営』(1979)より>

 

 この指示から1年と少しのときが経ち、松下通信工業は要求通りの値下げをし、適正な利益も得ることができるようになったといいます。「世間は正しい」を早くから商売上の信念にしていた松下でしたが、この時期の松下にとって「世間」とはもはや「グローバル社会」であったのでしょう。ただ松下電器同様、日本企業がこうした危機を乗り越えていくなかで、松下はそれまで目標だったアメリカの変容に気づきます。自著『日本はよみがえるか』(1978)ではこう述べています。

 

 考えてみれば、つい最近までアメリカは、世界の繁栄の中心であった。(中略)ところが、アメリカは、26年前に行ったときと13年前に行ったときと、それから一昨年行ったときと、この3段階を考えてみると非常に変わった。そしてまた、アメリカもある面では非常に低迷しているという感じを受けた。最初、26年前に行ったときには、戦後間もないときだから、なるほどアメリカという国は大したものだな、同じ人間、同じ国家をなしているにもかかわらず、どうしてアメリカがこんなに立派に繁栄しているのだろうかと、おどろいた。(中略)

 

 その12年後にまたアメリカヘ行った。そうするとだいぶ様子が変わってきた。というよりも、日本の様子が変わったのであろう。前に感じたほどの感激はなかった。なるほどアメリカは相変わらず物事を能率よくやって立派なものだけれども、日本も相当追いついたな、という感じがした。そして今度また13年ぶりにアメリカを見ると、見たのはごく一部の範囲にしかすぎないが、ほとんど日本と変わりない。アメリカはこういう点が立派だなと感じるところは少なかった。むしろ、こういう点は日本の方がいいな、工場の経営にしても日本の方がうまいな、というように感じる点があった。そこで、アメリカのその後の進歩というよりも、日本が急速に充実し発展し繁栄している、ということを改めて認識したのである。

 

 日本の発展とアメリカの凋落をじかに感じた松下は、日本はアメリカに学ぶことに終始するのでなく、そろそろ独自の発展の道を切りひらいていかねばならない、早く発想を転換し、新しい「国家経営」の道に踏み出さなければいけないとも同書で説いています。いまから35年以上前の提言ですが、その道を日本はいまだに見いだせていないのかもしれません。

PHP研究所経営理念研究本部

 

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