自らが創設したPHP研究所が30周年を迎えた昭和51年、松下幸之助は、21世紀初頭の日本はこうあるべきだ、こうあってほしいとの願いをこめて『私の夢・日本の夢 21世紀の日本』という本を出版しました。それは未来小説という体裁をとっていますが、いわば松下幸之助の提言の集大成ともいえるものでした。

 松下幸之助が描いた「理想の日本」「理想の日本人」とは、いったいどんなものだったのでしょうか。

 

松下幸之助が描いた21世紀の日本

過疎過密のない国――part1

 昭和二十年代も後半にいたり、日本の経済はようやく立ち直りを見せ始めた。しかし、先進諸国との技術格差は著しく、昭和二十六年度(一九五一)においては輸出額が十三億ドル、輸入額が十六億ドルと、貿易収支は赤字であった。日本経済のさらなる復興を目指すには、まず先進技術を導入し、産業、経営、政治等さまざまな面における合理化によって、国際競争力を高めていくことが強く求められていた。

 そうしたなかで松下幸之助は、昭和二十六年の一月、アメリカの視察に出かけた。そして三カ月間におよぶ滞在を経て、日本の復興のためには、先進技術の導入、合理化に一層の努力を払わなければならないが、現時点では工業製品による輸出増はなかなか難しいとの考えを抱いた。

 ではどうすればいいか。松下幸之助は、往路に立ち寄ったハワイに多くの観光客が訪れていることに着目し、観光施設を整備しさえすれば、優れた景観美をもつ日本にも多くの外国人が訪れるようになり、ハワイ以上の発展を生み出せるのではないかと考えた。そして、「たとえ通産省はなくなっても観光省はつくらねばならない」と、早期の日本復興のためには、日本の景観美を生かす観光開発が重要であることを強調した。

 

 昭和二十八年(一九五三)のある講演会では、日本の天地自然に備わった景観美の輸出、つまり観光開発を訴えるとともに、「ほんとうに日本の実業は生産だけでなくて、この景観の美を生かさなければならないという感じがします。いくら見ても見きれないところの景観の美を実業に取り入れてやれば、日本は貧乏国でなく、たちまち世界一の国になると考えております」と語っている。

 こうした観光開発に対する考え方は、訪米・訪欧を重ねるたびに強められることになった。松下幸之助は昭和二十九年(一九五四)の『文藝春秋』五月号に「観光立国の弁」と題する論文を寄せているが、そのなかで、ハワイが美しいといっても海だけではないか、スイスが素晴らしいといっても山と湖だけではないか、日本には山あり海あり、しかも四季折々の美しさがある、日本の景観美こそは世界で一、二を競うものであり、それを生かさないのは大きな損失であるとして、国をあげて観光開発をすすめるべきだと力説している。

 松下幸之助は、日本の景観美を生かした観光立国こそ日本の進むべき一つの道であるとするとともに、観光立国を目指すことによって、国はより豊かに平和に美しくなり、諸外国からも高く評価されるような立派な国になると主張したのである。

 

もしも人間の力で瀬戸内海をつくると…… 【自然観2】 へつづく

◆『[THE21特別増刊号]松下幸之助の夢 2010年の日本』(1994年10月)より

 

筆者

大江弘(PHP研究所社会活動部長)

 

筆者の本

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関連項目

松下幸之助の社会への提言「観光立国への提言」

松下幸之助の社会への提言「私の夢・日本の夢 21世紀の日本」

松下幸之助の政治・経済・社会・国家観

松下幸之助のPHP活動〈21〉「『観光立国の弁』とその反応」

 

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