これからの日本は「原子力発電」にどう向き合うべきか。

 東日本大震災以後、多くの国民が関心を寄せるこの問題に、2012年9月14日、政府は「原発稼働ゼロ」に向けて、一定の方向性を示しました。

 しかし経済界からは即座に見直しの声があがっており、解散総選挙を控えた現在の不安定な政局にも何らかの影響を及ぼすことになるでしょう。

 この国家レベルでの戦略的・長期的視野が必要とされる「資源・エネルギー問題」に関して、松下幸之助は、その独自の哲学をもとに、ある「考え方」を提起していました。 

(2012.10.12更新)

 

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 「省エネ」という言葉を強く意識せざるを得なかった今年(2012年)の夏。多くの国民にとって、東日本大震災以後、資源・エネルギー問題はより身近なものになったことでしょう。そうした中で政府は、9月14日のエネルギー・環境会議で決定した「革新的エネルギー・環境戦略」において、「2030年代に原発稼働ゼロ」を目指すという方向性を示しました。

 

 この原発、そして資源・エネルギー問題に関して、弊PHP研究所創設者・松下幸之助は、関西電力の相談役を務めたこともあってか、幾度となくインタビュー・質問を受けていました。 

 1973年そして1979年に日本経済を襲った石油危機を契機に、国内の産業界を支えてきた石油の代替エネルギーとして、原子力発電が大いに注目を浴びます。その開発推進に国民の期待と反発が交錯する状況の中、『週刊東洋経済』1979年11月17日号のインタビューで、松下はこんな発言をしています。

 

 「資源というものは、絶対に尽きることはない。必要なものには必ず代わりがあるものです。人間は過去何万年も生きている。そのあいだ、数は何万倍にもなっている。それでも食うだけのものはある。むしろ、今のほうがぜいたくです。だから、『人間が存在するかぎり、人間が必要とする物資は無尽蔵にある』ということを原則にして考えなければいけない。

もし油が十年先に切れるのだったら、それに代わるものを開発したらいい。原子力発電がいいなら、まずそれをやり、ダメになったら、つぎのものを開発したらいい。ところが、今は権利とか勝手主義にとらわれて、みすみす、安くて無尽蔵といっていいほどある資源を利用しないでいる」

 

 この発言から30年以上の月日が経過したいま、原子力発電のあり方が日本国内であらためて問い直されています。東日本大震災・原発事故という体験、さらには被爆国という稀有な体験をもつ国家ゆえの国民感情が重くのしかかるこの問題に、現政府は真摯に向き合い、国民全体のコンセンサスをとるべく最大限の努力を払わなければならないでしょう。

 

 さてそれでは当時の松下は、資源・エネルギー問題にどう向き合っていたのでしょうか。さまざまな政策提言を精力的に行なっていた松下は、この問題に関しても、自身の人間観・社会観にもとづく「考え方」を、世の中に提起していました。以下にご紹介する一文は、松下の経営理念・哲学を体系化した書『実践経営哲学』(1978年刊)からのものです。

 

 この大自然、大宇宙は無限の過去から無限の未来にわたって絶えざる生成発展を続けているのであり、その中にあって、人間社会、人間の共同生活も物心両面にわたって限りなく発展していくものだと思うのである。そういう生成発展という理法が、この宇宙、この社会の中に働いている。その中でわれわれは事業経営を行なっている。そういうことを考え、そのことに基礎をおいて私自身の経営理念を生み出してきているわけである。

 

 たとえば、資源の枯渇ということがいわれている。もう何十年かしたら資源がなくなってしまう、そうなると人間は生きていかれなくなってしまうというような極端な考え方もある。しかし、私は基本的にはそうは考えないのである。確かに、個々の資源というものをとってみれば、有限であり、使っていくうちになくなるものも出てくるだろう。

けれども、それにかわるものは人知によって必ず生み出し、あるいは見出すことができると考えるのである。現に人間は過去の歴史において、そういうことをしてきている。昔に比べて、はるかに人口も増えているけれども、人口の少なかった昔の生活はずっと貧困であり、今日では一般庶民でも、ある面では昔の王侯貴族も及ばないような生活をしている。

それは、そういうことができるように、この大自然がなっているのであり、また人間がそのようにつくられているからであろう。いいかえれば、限りない生成発展ということが、自然の理法、社会の理法として厳として働いているからである。

 

 もし、資源があと何十年かで枯渇し、人間生活もきわめて貧困になってくるというのであれば、お互いの事業経営も、それに相応したものにならざるを得ない。新たな投資とか、そういうことはもちろん必要がなくなるし、場合によっては、事業そのものも縮小するなり、やめるということにもなりかねない。しかし、宇宙に存在する万物は日に新たに、限りなく生成発展を続けていくという考えに立つならば、おのずとそれとは違ってくる。

成長、発展のテンポというものには、その時々で違いはあろうけれども、この人間の共同生活は限りなく生成発展していくものだということになれば、それに応じた物資なりサービスなりの供給も時とともに増加させていくことが求められてくる。そうでなくては生成発展にならない。だから企業経営としても、原則としては次々と新たな開発、新たな投資を行なっていくことが必要になってくるわけである。

 

 もちろん、生成発展ということは、一方で絶えず新しいものが生まれているということであるから、その一方で衰退というか、消滅していくものもあるわけである。そういうすべてを含んで、全体として生成発展しているということである。事業経営においても、個々の商品なり業種については、一定の寿命というようなものが考えられよう。

 けれどもそれだけを見て、全体としての大きな生成発展ということを見失ってはいけない。やはり、この人間の共同生活、さらにはそれを包含する大自然、大宇宙は絶えず生成発展しており、その中でわれわれは事業活動を営んでいるのだという基本の認識は、どんな場合でもきわめて大切である。そういう明確な認識が根底にあってこそ、いかなる場合においても真に力強い経営を展開していくことが可能になるのである。

 

 松下は、こうした自身の哲学を礎とし、前掲の『週刊東洋経済』インタビューにみられるような「資源は無限である」という考え方を、さまざまな場で強く訴えかけました。その視点・発想がより詳しく示されている『Voice』1978年4月号の内容を、以下にご紹介します。松下が当時の状況をふまえて、とくに政官財に向けて発信したものですが、その言わんとする本質は、いまの時代においても十分通用する内容といえるのではないでしょうか。

 

松下 (前略)資源というものは無限にある、人間がこの地球に存在するかぎり、必要とする資源は必ず出てくるというのが私の基本的な見方です。

 

 ――そうしますと、石油は今後もいくらでも出てくるとお考えでしょうか。

 

松下 いや、そういう意味ではないのです。もちろん、石油にしても、今後さらに新しい油田がみつかったり、開発が可能になって、現在考えられているより増えてくることは十分ありうると思いますが、しかし、使い続けていくかぎり、時期の早い遅いはあっても、いつかはなくなるのは当然のことです。そのことは、鉄なり銅なり、その他の資源についてもいえるでしょう。

ですから、そうした個々の資源というものは、それぞれに有限で、何十年後か、何百年後かはともかく、やがてはなくなる。私のいうのは、そうした個々の物資でなく、もっと大きな立場から見た、人間が必要とする資源全体ということですね。つまり、石油なら石油というものはなくなっても、必ずそれに代わるものがみつかるだろうということです。

今日でも、エネルギー源の面で、原子力や太陽熱の利用などが研究され、一部実施されていますが、そういうものがあらゆる面で次々に開発されていくだろうということです。科学技術といいますか、人間の知恵というのは無限に進歩発達していくものですからね。その進歩につれて、今後新しい物資がいろいろ発明、発見されてくるとか、今のところでは捨てて顧みられないようなものでも、新たな活用法が見いだされるといったことが、次々と出てくると思うのです。そういう意味で、人間が必要とする資源は無限にあると考えていいと、私は思いますね。(中略)

 

 当面の問題を政治の上でも学問の上でも考えることはきわめて大事だと思うのですが、そういう短期的な視点だけだと、どうしてもそこに政治のロス、学問のロスが生じて、大きなムダになります。第一それでは腹に力が入らないでしょう。

たとえば、会社の経営でも、“この事業はだんだん衰退していくだろう”と考えてやっていたのでは、出るべき知恵も出なくなってしまうでしょう。やはり“これはやりようによっては無限に発展させていくことができる”と考えてこそ“それならこうしていこう。ああしていこう”という知恵も湧いてくると思うのです。それと同じことですね。“資源は無限である”という信念に立った上で、“しからば、個々の資源の枯渇にどう対処していくか”を、政治の上でも、学問の上でも考えていく。そこに初めて適切な対応策なり新たな発明が考えられてくると思うのです。今はそういう根本のところが見忘れられて、“資源がなくなる”ということに、いささかおびえているような感じがしますな。

 

 ―― 人間全体として、資源は無限ということは分かりましたが、日本という国だけを考えてみますと、何といっても国内にほとんど天然資源をもたないだけに、非常な不安が残るように思うのですが……。

 

松下 その点についても、最近よくいわれる“日本は資源小国だ”というような考え方には私は異論があるのです。ほんとうにそうなのかどうかということですね。もし日本がほんとうに資源のない国だったら、今日のような発展はできなかったはずです。

それができたということは、国内でこそ資源は産出しませんが、実際は資源をもっているということですね。たとえば、日本では鉄鋼の原料である鉄鉱石も強粘結炭もほとんど産出しませんが、それにもかかわらず、世界でも最も良質で安い鉄鋼を豊富に生産しています。これはいうまでもなく、それらの原料を輸入しているからですが、そういうことができるというのは、資源があるのと同じことです。だから、日本には資源がないどころか、見方によっては世界一資源の豊かな国ですよ。

 

 ―― ただ、今までは必要なだけの資源を輸入できたけれども、これからはだんだんむずかしくなってくるのではないでしょうか。

 

松下 そういう面も多少は出てくるかもしれませんが、基本的には心配要らないと思いますね。たとえば、先日の新聞にこういうことが載っていました。それは、日本の鉄鋼生産が不況で停滞しているため、鉄鉱石や原料炭を日本に輸出しているオーストラリアが非常に困っているというのです。

オーストラリアでは鉄鉱石や原料炭の輸出のうち、実に八〇パーセント近くが日本向けなのですね。だから、日本の輸入が減ったりすると、むこうの経済にも大きな影響があるし、鉱山会社では深刻な失業問題をひき起こすことになるというので、なんとか輸入を削減しないでほしいという強い要望を出しているそうです。

また、一月に中東諸国を訪問した園田(直〈すなお〉) 外務大臣は各国で非常な歓待を受けたと報ぜられていますが、これは一つには産油諸国にとって、日本は最大の輸出先だということも関係あるといわれていますよ。ですから、石油でも鉄鉱石でも、もし資源保有国が対日輸出をストップしたら、日本も非常に困りますが、同時にその国自体も困るわけですね。

それだけの資源を自国だけで活用できないし、ほかに日本に代わる輸出先もみつからないということで、いわば宝の持ち腐れにもなりかねません。日本が輸入することによって、その資源も生かされ、日本も資源保有国もともどもに発展するわけで、共存共栄の関係にあるわけですよ。結局、日本はそうした資源を運搬できる海上交通の便に恵まれ、しかもそれらを生かすことのできる高度の工業力、さらに優秀にして勤勉な国民性をもっている。それによって、各国の資源を生かすことができるわけで、そういうものがあるかぎり無限の資源をもっているのと同じことではないでしょうか。

 

 ―― そういう意味からも、前にもおっしゃった日本の国としての自己認識ということがきわめて大切なわけですね。

 

松下 そのとおりです。日本の位置なり、国民性から考えれば、資源小国どころか、さきにも言ったように世界でいちばん資源が豊かな国だという見方もできるわけですよ。いわば世界にある資源はすべてわがものである。ただ便宜上預けてあるのだというようなものですね。預け賃というか、正当な代価はもちろん支払わなくてはなりませんが、必要なものはいつでも使うことができるのだというくらいの考えをもつことが一面大切です。そうでないと、卑屈になって、及び腰の国家経営しかできなくなってしまいます。

 

 もちろん、現実には各国が資源を保有しているのですし、国際情勢は絶えず変動していますから、どんなときでも外国の資源をわがもののごとく使えるためには、日本がそれにふさわしい国にならなくてはいけませんね。

経済的な面はもちろん、精神的、道徳的にも立派な国であり、国民でなくてはならない。そういう意味で、園田外相が中東諸国の歴訪で、日本として中東の国々のために何ができるかを尋ねられたというのは、非常にいいことですね。そのように、「日本は世界各国の繁栄、発展に貢献していくのだ」という基本の姿勢を一時的、便宜的にでなく、誠心誠意もち続けていくことが大切です。それは国全体としても、また民間の各企業、各個人としてもいえることですね。そういう相手国優先といいますか、共存共栄という基本理念を堅持し、それを実践していくかぎり、各国も必要な資源は供給してくれるでしょう。そうなれば、日本はほんとうに資源は無限ということになりますね。

 

 もちろん、無限だからといって粗末に使ってはいけないのは当然です。だから“資源は無限”という基本をしっかりつかんだ上で、現実の生活、活動においては省資源ということを考え、実行していく。かりに今まで一キロの鉄を使ってつくっていたものでも、半分の五百グラムでよりよいものができないかというようなことをあらゆる面で研究していく。また国民も物を大切にし、有効に使うような訓練なり精神修養をしていく、そういう両面が必要ですね。今は、その前半の無限という面が忘れられて、省資源ということばかりが強調され、それで政治にしても、経済活動にしても、おびえつつやっているというか、及び腰のところが多分にあるわけですね。

 

 ―― やはり、基本の考えをしっかりもたなくてはいけないということですね。

 

松下 まあ世界にたくさんの国があって、どういう国がいちばん発展しているかというと、必ずしもいわゆる資源保有国が発展しているとはいえない状態ですね。たとえば、スイスのごときは地下資源はほとんどないし、周囲がすべて陸ですから海洋資源もない。にもかかわらず、世界の各国がスイスの銀行に金を預けるというほど堅実な発展をしています。

また、オランダにしても、ほとんど資源がない上に、国土の四分の一は海抜〇メートル以下というような悪条件の国ですが、やはり隆々と発展してきています。そういうことを考えてみますと、資源の有無というのは非常に大事なことではあるけれども、それがただちに一国の繁栄、発展を左右するものではないわけですね。資源も大事だけれど、それ以上に重要なのは、国家経営のあり方なり、国民のものの考え方だと思うのです。

そういう点に当を得なければ、いかに豊富な資源をもっていても国家を発展させることはできないし、結局、資源はなきに等しい状態になってしまう。反対に、正しい理念、考え方にもとづいて適切な国家経営が行われれば、国内に資源はなくとも、いくらでも発展の道を生み出すことができるわけです。ですから、まして資源を得る上で地理的に非常に恵まれている日本は、いやでもおうでも発展につぐ発展を遂げるような運命におかれているといっても、決して言いすぎではないと思います。そのことをよく自覚して、冷静に個々の資源の問題に対処していけば、適切な対応策や新たな発明、発見はいくらでも生まれてきますよ。

 

 くり返して言いますけれど、まず“資源は無限”という基本の原則をしっかりつかむことです。特に国家経営、政治の面においてそのことがきわめて大切だと思うのです。

 

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PHP研究所経営理念研究本部