名優・幸之助――経営の姿勢〈14〉
経営

名優・幸之助――経営の姿勢〈14〉

 昭和三十一年ごろのこと、研究所の課長が手狭になった施設を拡充する決裁をもらうべく、幸之助を訪ねた。幸之助は自室で別の社員の報告を聞いていた。隣の秘書室で課長が待機するうち、幸

工場経営の基本――仕事を見る眼〈14〉
仕事

工場経営の基本――仕事を見る眼〈14〉

 まだ戦後の混乱のさなかにあった昭和二十二年暮れのことである。たまたまその年は十二月二十五日の大正天皇祭をはさんで年末まで、飛び石で休日が続いていた。そこでいくつかの製造所から

質屋の通い帳――人生断章〈14〉
人生

質屋の通い帳――人生断章〈14〉

 あるとき、幸之助宅の蔵の中から一束の古い書類が出てきた。配線工として勤めていた大阪電灯会社時代に会社からもらった十数枚の昇給辞令や、給与の明細書、退社したときに受けた退職金の

一年間何をしていたのか――人を見る眼〈13〉
人材育成

一年間何をしていたのか――人を見る眼〈13〉

 入社して一年ほどで肋膜炎を患い、一カ月入院した青年社員が、社内新聞の編集担当部署に復職した。その一日目、青年はできあがったばかりの社内新聞を、幸之助のところへ届けるよう命じら

病と仲よく――情を添える〈13〉
心くばり

病と仲よく――情を添える〈13〉

 ある幹部社員が病に倒れ、入院した。「一年くらいの療養が必要」「絶対安静」「面会謝絶」とつぎからつぎに出される医師からの宣告に、すっかり気落ちしてうつうつとベッドに身を横たえて

髪型も会社の看板――共存共栄への願い〈13〉
共存共栄

髪型も会社の看板――共存共栄への願い〈13〉

 幸之助は、忙しいスケジュールのあいまをぬって、十日か二週間に一回は散髪することにしていたが、これには一つのきっかけがあった。    昭和三十年ごろ、東京銀座のあ

石炭にきいてみよう――繁栄への発想〈13〉
発想法

石炭にきいてみよう――繁栄への発想〈13〉

 戦後の混乱のなかで、“どうして万物の霊長といわれる人間が、このように苦しんでいるのか”という疑問から、幸之助は、昭和二十一年十一月、PHP研究所を設立

大将というものは......――経営の姿勢〈13〉
経営

大将というものは......――経営の姿勢〈13〉

 幸之助には、いわゆる相談役ともいうべき人物がいた。真言宗の僧侶で、大正の終わり、幸之助が三十歳のころに、ふとしたことから知りあった。後年は、松下電器の中に小さな家を建て、そこ

きみ、座布団が裏返しや――仕事を見る眼〈13〉
仕事

きみ、座布団が裏返しや――仕事を見る眼〈13〉

 京都東山山麓の真々庵、現在はパナソニックグループの迎賓館になっているが、もとは幸之助の別邸で、昭和三十六年から四十二年までPHP研究所の本拠でもあったところである。ここに幸之

区会議員選挙に当選――人生断章〈13〉
人生

区会議員選挙に当選――人生断章〈13〉

 大正十四年、幸之助は町内から推され、大阪市の連合区会議員の選挙に立候補することになった。健康状態があまりよくないからと断わったが、「もう町内有志で決めたことでもあるし、選挙運

きみ、あんまり働きなや――人を見る眼〈12〉
人材育成

きみ、あんまり働きなや――人を見る眼〈12〉

 昭和三十七年十月、松下電器は、台湾松下電器を現地資本と合弁で設立した。人員は百人あまり、主製品はラジオとステレオ。しかし、当初、経営は非常に厳しく、設立から約一年で資本金にほ

外国語がわからんので......――情を添える〈12〉
心くばり

外国語がわからんので......――情を添える〈12〉

 昭和十年から数年にわたって、幸之助は、今でいう社内誌にあたる『歩一会会誌』という小冊子に、みずからの生いたち、事業の変遷などを書きつづっていた。大阪の門真から、そのころ幸之助