松下幸之助は平成元(1989)年4月26日から昏睡状態に入り、27日朝10時6分死去しました。94年5カ月の生涯でした。

 遺体は同日午後3時頃、松下記念病院から兵庫県西宮市の私邸・光雲荘に運ばれました。光雲荘では道路に受付が設けられ、翌28日、仮通夜が営まれています。仮通夜は、基本的に松下家の営みでしたが、多くの人が悼むことができるよう、一般の弔問も受けつけていて、近所の人や生前に親しかった人が駆けつけた様子がテレビのニュース速報で放送されました。


 翌29日、遺体は大阪市中央区本町にある北御堂(きたみどう)(浄土真宗本願寺派・本願寺津村別院)に移され、翌日の密葬を前にした通夜が営まれています。一般の焼香も受けつけ、合計約3,500人が参列しました。


 密葬は4月30日、大阪市中央区の北御堂で午前11時から営まれました。本願寺総務より「光雲院釋真(しん)幸(こう)」の法名(戒名)が与えられています。合計8,550通の弔電があり、一般向けの焼香台も通夜と同様に設けられ、約12,000人が焼香をしました。


 僧侶がすべて退席してから松下正治・松下電器会長(当時)が、残った人たちにスピーチをしています(速記録№9224)。幸之助について「少年期と戦後数年間の時期を除いて、誠に幸せな生涯であったと存じます」と述べ、50年前に個人的に話していた時に「人間というもの、人間社会というものについて研究をしてみたい」と言っていたと秘話を紹介しました。「このような念願が実を結んだのがPHPであります」と説明しています。棺桶は松下体育委員会の男性若手社員7人が担いで出棺となり、3時間を超える密葬が終わりました。


 合同葬(社内葬)は、平成元(1989)年5月25日、大阪府枚方市にある松下電器体育館で執り行なわれました。葬儀の様子は、衛星中継で各地事業部へ伝えられ、海外の松下電器でもそれぞれ追悼行事が催されています。国内外より11,253通の弔電があり、一般参列者は焼香ではなく、一輪の白菊を献花台に添えました。屋外では雨の降る中、献花は3時間近く続き、午後3時30分に終了の予定が、予想以上の参列者の多さにより、午後4時45分に終了しました。


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