松下幸之助経営塾」は、松下幸之助の経営哲学を学ぶための、経営者・後継経営者を対象にした公開セミナー。松下幸之助の直弟子や、すぐれた経営理念によっていま活躍中の経営者ら、一流の講師陣による講話も魅力のひとつです。今回は、小川守正氏(パナソニック客員)の特別講話の要旨をご紹介します。

叱られて経営を学ぶ(1)からの続き

 

松下幸之助経営塾講義再録

「赤字」と知り顔色変わる

1982(昭和57)年、私は松下住設の4代目の社長に就任しました。それまでの3名の社長は皆、健康を損ねて退きました。松下住設の経営は、それほど厳しかったということです。経営者である(当松下幸之助経営塾)塾生の皆様も気をつけてください。健康を害してしまうと、頭のひらめきをなくし、勇気を失ってしまうものです。

 

私が専務のときの1980(昭和55)年のこと。松下住設は従業員数が4000名と、人数では奈良県一の会社になっていました。ところが、松下電器の社内では、「あの会社は大変な会社や」と悪い風評が立つような状況でした。1000億円の年間売上を計上しながら、90億円もの赤字を出し、運転資金として松下電器本社から200億円もの借り入れをしていたからです。

 

こうしたなか、松下創業者が突然、奈良にやってこられました。「橿原(かし はら)神宮にお参りした帰りなんやけど、前を通ったので知らん顔して通り過ぎるわけにいかず、寄らせてもらった」ということでした。

 

1時間半ほど社内を見て回り、重役たちに「松下住設でこんなものまでつくっているとは思わなんだ。きょうはえらい勉強になった。新しい商品ばかりやから、みんな大変やな」と上機嫌でねぎらいの言葉をかけたあと、「ところで経営成績はどうなんや」と質問されたのです。社長は「赤字です」と答えられずにいたので、代わりに私が「ちょっと赤字です」と答えました。さらに「どの程度の赤字や」と詰問されて、しぶしぶ「90億円」と白状したのです。

 

すると、松下創業者の顔色がさっと変わり、すぐに松下電器本社の山下俊彦社長(当時)に電話をかけました。ところが不在のため、副社長、専務を順に呼び出しましたが、これまたいずれも不在。ようやく電話口に出た常務取締役経理部長に、「松下住設の赤字をきみは知っとんのか!」と、珍しく強い口調で問われました。経理部長が「知っています」と答えると、「赤字を出しているのはここにいる松下住設の重役たちの責任や。しかし本社は本社の責任をとれ!」と命じられました。

 

資金不足のまま急遽社長に

松下創業者を囲むように着席していた重役たちには、電話の向こうにいる経理部長の声がよく聞こえました。「どうすればよろしいのでしょうか」と松下創業者に尋ねています。すると松下創業者は、「本社がカネを貸すからこんなことになるんや。明日すぐに引きあげよ」と指示されたのです。

 

その会話を聞き、「社員に給料が払えなくなってしまう。協力工場にも支払いができない。どうしたらいいのだ」と、不安が心をよぎりました。小学校を卒業してからずっと松下創業者のもとで仕事をしてきた社長などは、衝撃のあまり脳貧血を起こしてしまい、隣にいた私はすぐに社長を抱えながら会議室の外に出て、部下に医務室に運ぶよう指示しました。

 

会議室に戻り松下創業者にその旨を伝えると、「しょうがないな。わし、帰るわ」と言って、席を立ってしまったのです。玄関まで慌てて見送りに出たところ、「会社は今、危機や。危機に倒れる経営者はいかん。きみ、社長をやりなさい」と私に命じて、帰られました。

 

翌日、松下電器本社にどうしたらよいか相談に伺ったところ、なんとすでに社長交代の指示が出ていて、私への辞令も用意されていました。驚いた私は、すぐに松下創業者に資金の引きあげを中止してくれるよう、頼みにいきましたが、「きみたちのような人が経営する会社には、よう貸さん」と断られました。それでも、資金がなければ経営者としてやっていけないと思い、「それなら辞めさせてもらいます」と言ったのです。すると、「危機だというのに、何ということを言うのや!」と、みっちり叱られました。

 

ところが、松下創業者は叱り終えると、「これを銀行に見せて、工場の土地や建物を担保にしておカネを借りなさい」と言って、紹介文の書きこまれた名刺を差し出されたのです。私は奈良に戻ると、すぐにその名刺を持って、まったく取引実績のない3つの銀行を訪ね、融資を申請しました。すると、三銀行すべてが資金を用立ててくれ、何とか急場をしのぐことができたのです。

 

叱られて経営を学ぶ(3)へ続く

 

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