今日、昭和57(1982)年5月28日付の「PHP劇団に関する計画案」と題する資料がPHP研究所に現存しています。PHP研究所は初期の活動でも「PHP劇団」の設立を考えたことがあり、これが30年以上たって再び検討される形になりました(※1)。

 資料は、なぜ劇団を設立するか、といった基本理念について記述はなく、最初から方法論について論じています。劇団の形式として固定劇団員を抱えた劇団四季の方式と、随時チームを編成する東宝劇団方式があるとし、経費削減のため、後者が「優位」と判断しています。内容はPHP研究所の出版物との「連携」を考えるなど、「同一テーマをもって、全国主要都市で順次公演する」と計画が立てられました。


 将来的には演劇以外にも、映画やテレビ番組をプロデュースしたり、劇団専用のホールを設けたりすることも視野に入れていました。「浪曲」「落語」「講談」「歌謡曲・民謡」「剣舞」なども検討課題にあがっています。組織としてはPHP研究所の内部組織ではなく、「別会社方式の方が優位」としていました。


 「株式会社 PHP劇団」は新会社設立という大型企画であり、計画書には役員による書き込みもあって、特に重視された様子が窺えます。しかしその後、実現されないまま立ち消えになりました。



1)株式会社ナショナル宣伝研究所社長であった竹岡リョウ一氏によれば、昭和19(1944)年の末ごろ、松下幸之助は敗戦を予期し、終戦後は実業活動ができなくなるので「阿呆劇団」を組織しようかと相談したことがあったとのことです。PHP研究所研修局編『PHPゼミナール特別講話集 続々松下相談役に学ぶもの』(1979年)31~33頁。