どんなに辛く苦しくとも、やはり何とか自分で考え、自らが解決しようとする。このことが人間の姿勢として、基本のものだと思うのですね。そうすれば必ず新たな道がひらけてくると思います。ところが、いまの世の中はその反対ですな。甘えをすすめるような世の中ですわ。しかも、これまでお互い日本人が甘えつづけてきたそのツケが、いま社会の各面にあらわれ、放っておいたら国の滅亡にまでなりかねない状態になりつつあるのですよ。こんなことにならないためにも、まず、あなた自身が甘えを捨て、自らの足で立つことを考える。そういう見方を養ってほしいのですね。

『若葉』(1976)

解説

 『甘えの構造』というすぐれた日本人論を書いたのは、精神科医の土居健郎氏(故人、元弊社研究顧問)でした。「甘え」という感情が日本社会にどのような影響を及ぼし続けてきたかを論究した同書には、たとえば刊行当時(1971)の日本の社会風潮とされた“世代間断絶”について、それは“世代間境界の喪失”と表現するのが妥当であり、その現象の根底には“奇妙に甘えの充満している時代(=当時の日本のこと)”があるのだといった鋭い指摘が随処にみられ、日本・日本人の本質を独自の視点で洞察した名著といえます。

 松下幸之助が今回の言葉でいう「甘え」は、もちろんそうした広範な研究をもとに言及されたものではありません。ただその感情が、人間・日本人の本質的なものであることを認識していた可能性は高いようです。というのも幸之助の経営には、つねに“けじめ”が存在し、甘えという他者・他力依存の感情の制御に機能すると思われる行き方、施策がよく認められるからです。

 同族経営からはじまって、事業拡大とともに社員が次第に増えていく中、幸之助は経営面での公私を明確にしようと、公明正大の精神、企業の社会的責任というものを社内に深く浸透させていきます。リーダーには信賞必罰の大切さを説き、社員個々にも、自立・自主独立、社員稼業といった意識の徹底をはかりました。ガラス張り経営の推進、自主責任経営にもとづく事業部制の導入等は、まさにその実践の証でしょう。しかもその経営の知恵は、幸之助の人間観にもつながるものとなっています。

 “大自然はつねに生成発展している。しかしその理法はきびしく、みじんの甘さもない。人みなの営みも同じことである。甘えの姿勢からは、絶対に生成発展は生まれないのである。窮屈にしろというのではない。きびしさに耐えてこそ、ほんとうの心の明るさとゆたかさがあることを知っておきたいのである”。『続・道をひらく』にある、幸之助の言葉です。

 いつからこうした観方を養っていたのか、それはわかりません。不断の自己観照の賜物か、幼少の頃の(家庭の事情で甘えるに甘えられなかった)境遇のせいか……。ともあれ今回の言葉にある、幸之助が強く訴えた「甘え」を捨てることは、停滞し閉塞しつつある現代を生きる日本人にとって、反芻すべき重要命題の一つといえるのではないでしょうか。 

学び

甘えを進めるような世の中に確かな未来があるはずがない。

甘えていないか。甘えさせていないか。