松下幸之助の経歴
プロフィール
パナソニック(旧松下電器産業)グループ創業者、PHP研究所創設者。
明治27(1894)年、和歌山県に生まれる。
9歳で単身大阪に出、火鉢店、自転車店に奉公ののち、大阪電灯(現関西電力)に勤務。
大正7(1918)年、23歳で松下電気器具製作所(昭和10年、株式会社組織に改め松下電器産業に改称)を創業。
昭和21(1946)年には、「Peace and Happiness through Prosperity=繁栄によって平和と幸福を」のスローガンを掲げてPHP研究所を創設。
昭和54(1979)年、21世紀を担う指導者の育成を目的に、松下政経塾を設立。
平成元(1989)年に94歳で没。
松下幸之助を知る Q&A
Q1.松下幸之助はどんな幼少時代を送ったのですか?
松下幸之助は、明治27年11月27日、和歌山県海草郡和佐村字千旦(せんだん)ノ木に生まれました。現在の地名は和歌山市禰宜(ねぎ)、JR和歌山線の千旦(せんだ)という無人駅から歩いて5分くらいのところです。樹齢800年ともいわれる松の大樹の下に家があったことにちなんで松下の姓がつけられたと伝えられています。父は政楠(まさくす)、母はとく枝(え)といい、松下家は小地主の階級で、かなりの資産家でした。8人兄弟の三男末子だった幸之助は両親に特にかわいがられて育ち、子守りと一緒に川で魚を釣ったり、鬼ごっこをしたりして、平穏な日々を送りました。
しかし、そんな幸せな暮らしも長くは続きませんでした。幸之助が4歳のとき、父親が米相場で失敗。先祖伝来の土地と家を人手に渡して一家は和歌山市に移住し、父は単身大阪に働きに出たのです。そして、その父から、「大阪八幡筋の火鉢店で小僧が要るとのことだ。幸之助を寄こしてほしい」という手紙が届き、幸之助は単身、大阪に丁稚奉公に出ます。尋常小学校4年の秋、9歳のときのことでした。
Q2.どこに丁稚奉公したのですか?
幸之助が最初に奉公したのは、大阪・島之内の「宮田火鉢店」でした。ここでの仕事は子守りや掃除が中心で、その合間に火鉢を磨いていたといいます。しかしこの火鉢店は幸之助が入って3カ月ほどで店を閉めることになったため、船場堺筋淡路町の「五代自転車商会」に移ります。幸之助は、新しい奉公先で頭の下げ方、言葉遣い、身だしなみや行儀など、社会人として、また商人としてのイロハをみっちり仕込まれました。後年、当時のことを「船場大学」「船場学校」として、懐かしく振り返っています。
Q3.パナソニックを創業するまでの経緯は?
幸之助が奉公を始めて5年ほどたったころ、大阪市では全市に電気鉄道の線路が敷設されました。幸之助は使いの途中にしばしば電車を見て、「これからは電気の時代だ」と新時代の到来を予感。奉公先を後にし、明治43年10月、「大阪電灯株式会社」の内線係見習工として採用されます。
幸之助の工事の腕は人並み以上で昇給も昇格も早く、大正6年4月、「検査員」に最年少で昇格しました。検査員はあこがれの地位ではありましたが、幸之助には次第にその仕事が物足りなく感じられ、また、肺尖カタル(肺上部の先端部の結核症。肺結核の初期病変)にかかり、医者からは養生を勧められて健康に不安を抱くようになります。
そうしたことから、不安定な日給生活より、いっそ妻と2人で何か商売でも始めようかと考えた幸之助は、以前考案していたソケットを何とかものにしたいという思いを抑えがたくなり、独立を決意。大正6年6月、22歳のとき、辞表を提出し、大阪電灯を退職します。そして翌7年3月、松下電気器具製作所(現パナソニック)を創業して電気器具の製造販売に邁進していったのです。
Q4.「ないない尽くしからの成功」と言われるのはなぜ?
幸之助は22歳のときに、それまで勤めていた電灯会社を辞めて事業家としての人生を歩み始めましたが、そのときの状態は、財産もない、学歴もない、健康にも恵まれない、両親も兄弟姉妹の大半も亡くなっているということで、文字どおり「ないない尽くし」からの出発でした。ところが幸之助は、こうした状況を、そのままマイナスの要因にはしませんでした。幸之助自身、次のように述べています。
- 生来からだが弱かったがために、人に頼んで仕事をしてもらうことを覚えた。
- 学歴がなかったので、常に人の教えを請うことができた。
- 財産がなかったので丁稚奉公に出されたが、そのおかげで幼いうちから商人としての躾を受け、世の辛酸を多少なりとも味わうことができた。
- お金がないから一歩一歩着実に計画を立て、資金のダム、信用のダム、設備のダムといった小さなダムを社内にいくつもつくり、銀行が与えてくれる信用の範囲内で融資を受けて、事業をやってきた。そのおかげで不況でも好況でも一貫して自己のペースで活動することができた。
「何もなかったから、かえって成功した」というわけです。「ないない尽くしからの成功」と言われるのは、このようなことからでした。
Q5.松下幸之助の経営を表すキーワードは?
幸之助は、みずからが60年以上にわたって事業経営に携わってきた体験を通じて得た信念として、経営においていちばん大切なのは、経営理念を確立することであると述べています。そのうえで、本来あるべき正しい経営の進め方として次のような姿を求め、実践に努めていました。
- 衆知を集めた全員経営:1人でも多くの知恵を集めて、それを生かす経営
- ガラス張り経営:経営の実態について秘密をもたず、ありのままを知らせる経営
- ダム経営:人・モノ・カネ等のあらゆる面で一定の余裕を確保する経営
- 適正経営:自社の総合的な実力を正確に把握し、その力の範囲内で進める経営
- 自主責任経営:社員1人ひとりがそれぞれの責任を自覚し自主的に仕事に取り組む経営
- 雨が降れば傘をさす経営:当たり前のことを適時適切に実行する経営
- 日に新たな経営:常に生成発展を目指す経営
- 共存共栄の経営:自社の発展だけでなく、共々に栄えることを目指す経営
- 適材適所の経営:各自の持ち味が最大限生かされる配置を考える経営
Q6.PHP研究所を創設したのはなぜ?
第2次世界大戦に敗れた直後の日本は、文字どおり危機に瀕していました。食べるものも住むところも、また仕事も極度に不足し、人々の道義道徳も乱れていたのです。加えて当時の法律や制度には不備が多く、ヤミでボロ儲けをする人があるかたわら、まじめに働く人ほど窮乏していくというのが現実の姿でした。
そうした世相の中で幸之助は、“どこかが間違っている。人間は本来、もっと平和で豊かで幸せな生活を送れるはずだ”という思いを強め、その思いを多くの人々に訴えたいと考えました。そして、「Peace and Happiness through Prosperity=繁栄によって平和と幸福を」をスローガンに、衆知を集めて研究し、実践運動を展開する機関として、昭和21年11月3日、PHP研究所を創設したのです。
翌年4月には月刊誌『PHP』を創刊、幸之助はみずから各地に出向き、研究会や勉強会を開いてPHPの趣旨を訴えかけました。
Q7.松下政経塾を設立したのはなぜ?
幸之助は、昭和21年にPHP研究所を創設以来、「社会がよくならなければ人々の幸せもありえない」という思いから、政治や社会に対してさまざまな提言を行いました。特に昭和36年に松下電器の社長を退いたのを機にPHP研究を本格的に再開してからは、提言の書を数多く出版してきました。
さらに幸之助は、社会をよくするためには為政者をはじめ各界の指導者に人を得ることが必要だと考え、次代を担う人材を育てる機関の設立を決意。みずから私財70億円を投じて、昭和54年6月、神奈川県茅ヶ崎市に「松下政経塾」を設立したのです。
そこでの研修の基本的な考え方は「自修自得」、すなわち、他から与えられるのを待って学ぶのではなく、自分で発意して研修、研究し、みずから理解、体得するということでした。幸之助は第一期生の入塾式で、この自修自得によって、「かりに卒塾して、すぐに文部大臣なら文部大臣をやれと言われても、それをやれるというくらいの見識を養わなければいけない」と述べています。
Q8.松下幸之助が大切にした“素直な心”とは?
幸之助はPHP活動の中で、「素直な心になりましょう。素直な心はあなたを強く正しく聡明にいたします」というスローガンを掲げて素直な心の大切さを人々に訴えるとともに、みずからもその涵養に努めていました。
一般に“素直な心”というと、おとなしく従順で、何でも人の言うことをよく聞くことだと解釈されます。しかし、幸之助のいう“素直な心”は、もっと力強く積極的なものでした。それは、私心なく、くもりのない心、自分の利害や感情、知識や先入観にとらわれず、物事をありのままに見ようとする心です。
心にとらわれがあると、物事の実相を正しくとらえることができず、判断を間違え、行動を過つことになります。一方、素直な心があれば、物事をありのままに見ることができ、物事の実相がつかめるので、正しい判断と行動が可能になります。また、どんな情勢の変化にも柔軟に、融通無碍に順応同化し、日に新たな活動も生み出しやすいといえます。だからこそ幸之助は、素直な心を養い高めることを説き続けたのです。