たとえてみれば、ダイヤモンドというものがあります。ただの石をいくら懸命に磨いたとしてもダイヤモンドにはなりません。みかけは同じようであっても、ダイヤモンドとしての本質を持った原石であって、はじめて、磨けば美しく光り輝くのです。それと同じように、人間も、すぐれた本質をその本性として与えられていないとしたら、今日までに、こうした進歩発展をとげ、高い文明文化をつくりあげてくることもできなかったでしょうし、今後ともしょせんは争いや不幸をくり返していくことになってしまうでしょう。しかし、幸いにしてそういう立派な本質を天命として与えられているわけです。だから、そのことを知り、正しい道を求めていくならば、その光り輝く本質を発揮し、物心一如の調和ある繁栄というものを実現することもできるのです。そのようなすぐれた本質、偉大な天命を与えられているということを人間はみずからしっかりと認識しなくてはならないと思います。そして、いかにすれば、その立派な本質を発揮し、天命を実践していくことができるかということを求めていかなくてはなりません。

人間を考える』(1972)

解説

 人間は、磨けば美しく光り輝くダイヤモンドのような「本質」を「本性」として与えられている。その「立派な本質」を発揮し、与えられた偉大な天命を自覚実践を求めていくことで、物心一如の調和ある繁栄を実現することができる。

 この松下幸之助の考え方には、一見すると人間の本性は善なりという前提があるようにもみえます。しかし幸之助の本意はそうではありません。いわゆる性善説や性悪説を方便ととらえ、人間本来の姿は善でも悪でもなく、無色透明なもの、人間の本質はそのまま「磨けば美しく光り輝くもの」であると認識していたのです。

 さてそれでは、人間がその偉大なる本質を発揮し、天命を自覚実践していくには、具体的にどうしたらいいのでしょうか。幸之助は、人間の個々の力、知恵だけでは足りず、古今東西の先哲諸聖をはじめ、幾多の人々の知恵を融合した衆知を得ることが必要だといいます。

 そしてその衆知を生かし、人間として正しい道を求めていくうえで、善も悪もいっさいをまずは容認し、適切に処置・処遇する、そうして人間のみならず万物をも生かす道を求めていくことが大切であると考えたのです。

学び

人間の正しい道を知る。

そしてその与えられた本質を発揮する。