まず、自己を知れとでも申しますか、自分というものを知らなければいけない。われわれ日本人は、日本を知らなくてはいけない、日本人を知らなくてはならないと、そんな感じがするのです。

かえりみて明日を思う』(1973)

解説

 古代ギリシアの哲学が生んだ“汝自身を知れ”を思い出させるような言葉です。こうしてみると、松下幸之助に哲学者という表現は適当ではありませんが、哲人とか求道者といった言葉なら妥当かもしれません。考えることをけっして放棄せず、自分という人間の存在自体を日々の自己観照を通じて考え続けた人間でした。また人を大事にし、人情の機微というものを大切にし、良好な人間関係を築いて和を尊ぶのが日本人として必然のことであると考え、その実践に努力を怠りませんでした。そして、自分自身についてよく知ったうえで、みずからの天与の特性を素直に生かしていくことが、お互い人間にとって必要不可欠であるという悟りを得ました。

 では私たちは、自分を知るために具体的に何をすればいいのか。ただ自分のことを見つめていればよいというものではないでしょう。幸之助も日々自己観照を重ねる中で、なにも自分だけを見つめていたわけではありません。ほんとうに自分を知るには、他の何かと比較し、客観視する力が必要になります。そしてその力を涵養するうえで、たとえば読書という知的作業は非常に効果を発揮するはずです。

 とくに過去の偉人たちの人生や仕事についてのアフォリズム(箴言・寸言)は、短文の中にこの世の真理、人間の神秘・不思議といったものが秘められています。その言葉に触れても、20歳のときにはなにも感じなかったのに、さまざまな人生経験を経て、40歳になって再会したとき、新たな勇気、希望、さらには人生を大きく変える閃きを与えられることもあります。『聖書』や『論語』が宗教や思想を超えて多くの人々に読まれ続けるのは、そうした不思議な魅力があるからでしょう。

 たくさんの良質の言葉と向き合い、自身の人生に照らし合わせ、洞察する。そうした習慣を持ち続けることで、人間は、自分(そして人間)がいかに尊い存在であるかを知ることができるのではないでしょうか。その過程で、自身に内在する善を見つけ、希望を見出したかと思えば、ときには悪の内在を知って嫌気がさすこともあるかもしれませんが、いずれにせよ、人間というものについて深く考えるきっかけになるのは間違いないことです。小学校を中退せざるを得なかった幸之助は、もちろん読書にも親しみましたが、それ以上に“世間”という最良の本に大いに学び続けました。どう学び、どう自己を知るか。自分にいちばん向いた方法を早く見つけたいものです。

学び

敵を知り己を知れば百戦危うからず、という(孫子)。

しかし自分はどれだけ“自己”を知っているのだろうか。