日本の諸問題、諸情勢についての考え方とあわせて、豊富な体験をもとに築いた人生哲学を語る。

まえがき

 今回、潮出版社より、最近の日本の諸問題、諸情勢に関して私が考え、感じていることの一端を話してほしい、またそれとあわせてこれまで私が断片的に話してきたことを編纂して一冊の本にしたい、とのお申し出があった。そしてその本のまえがきとして何か書くようにとのご要望もいただいたので、次に最近の所感の一端をのべて、まえがきにかえさせていただきたいと思う。
 現在の日本は、政治、経済にわたって一大危機に直面しているように思われる。経済についていえば、物価は日々高騰の様相をみせ、また政治は政治で混迷を深めつつある。そこに国民の不安が生じ、その不安が国民活動の上に各種のムダをもたらし、能率の低下をおこしつつある。しかもそうしたムダや能率の低下が、物価騰貴に一層の拍車をかけるという悪循環に陥っているのである。
 これが今の日本の一面の状態だと思うのだが、こうした姿がなぜおこっているかというと、見方はいろいろあろうが、一言でいうなら、結局、お互い日本人の心の貧困のあらわれではないかと思う。つまり今の日本では、一般に物はたくさんあるし、貧困ともいえない。しかし実質的には、精神的貧困、心の貧困とでもいうべき姿に陥っているのではないかと思うのである。一例をあげれば、先般ある調査で、世界各国と比べて日本の青年が一番不満を感じているという結果が出たという。今日、世界の国ぐにの中には、日本より物が乏しく貧しいという国は少なくないと思われる。にもかかわらず、こうした結果が出ているというのは、やはり今の日本では物はゆたかでも心はむしろ貧困に陥っている面があるということの、一つの証拠ではないだろうか。
 また実際に今のわが国では、とかく相手の非を鳴らすというか、相手のわるいところにばかり目がついて非難し責めあうといった風潮がつよいように思われる。もちろんお互い人間だから、どこかに非というか反省すべき点があるのはいうまでもないが、そればかりとりあげて責めていたのでは、お互いに信頼しあう心もうすれ、いわゆる不信感に陥ってしまい、かえって好ましからざる姿も多くなってこよう。今の日本にはそうした姿がみられると思うのだが、これもまた、日本人お互いの心の貧しさのあらわれではなかろうか。お互い人間には、もっと寛容の心というものがあってもいいのではないかという気がするのである。
 そのように、物があってもそのありがたさがわからず、かえって不満を抱くとか、とかく相手の非をあげ責めあい不信感に陥るといった心の貧しさから、今の日本のさまざまの問題が派生しているのではないかと思う。日本の今の状態は、いわば沈没寸前であるという表現をつかった人もいるが、このままでは、ほんとうにそういった深刻な状態にも陥りかねない。したがって、われわれは一刻も早く、心の貧しさをとり除き、心のゆたかさをとり戻さなければならないと思う。つまり、現在の不平、不満にみちた心、あるいは相手の非ばかり責めて不信を抱くという心を、喜びと感謝にあふれた心、そしてゆたかな寛容の心にかえていくことが大切だと思うのである。
 そういうことを実現するためには、まず、お互い日本人が、自分をとり戻すというか、他への依存心をすてて、自主独立の気がまえをうち立てることが必要だと思う。というのは、終戦直後の日本は、諸外国の助けを借りつつ歩んだため、それが一つの習性となり、今でもなお心の底に他への依存心が残っているように思われる。つまり何でも他から助けてもらおう、何とかしてもらおうという貧困な心である。
 したがってわれわれは、こうした依存心をすてて、他の力を借りずに自分の力で歩いていくのだ、自分を独立させるのだ、という心がまえをもつことが必要だと思う。われわれが、心の貧しさをとり除き、ゆたかな心をとり戻すには、まず第一にそういう自主独立の精神革命ともいうべきものから始めて、自分というものをとり戻さなければならないと思うのである。
 中国ではかねてより「自主独立・自力更生」のスローガンを掲げ、国家国民が一体となってこのスローガンの実現に邁進しているというが、これはいかなる体制の下にあろうと非常に大事なことだと思う。われわれ日本人もまた、その中国の「自力更生」のように、一人ひとりが、そういう自主独立の気がまえをうち立てていくことが肝要だと思うのである。そのようにして、お互い日本人が自分をとり戻し、心の貧しさをとり除くことができたなら、物はゆたかにあるのだから、そのありがたさもわかって喜びも感謝も生まれてくると思う。またお互いに相手の非よりもむしろ良さをみとめあい、尊重しあうといった寛容の心も生まれ、そこから、国民活動のムダや能率の低下もしだいに少なくなっていくであろう。そうなれば、やがて物価騰貴も少しずつおさまって、逐次、より好ましい姿も生まれてくるのではあるまいか。
 潮出版社が本書を編纂されたのも、そういった心のゆたかさをとり戻して、よりよい日本を築いていこう、といったお考えからではないかと思うが、そういう点で本書がいささかなりともお役に立つならば、まことに幸せである。
  

昭和四十九年十一月
松下幸之助

  • 【新書版】目次

ゆたかな心で
 不安もまたよし15
 迷わずに18
 予期できない障害20
 天は一物を与える21
 苦労話はない25
 私の運命観27
 運の強さ30
 無理をしない32
 雨が降れば傘をさす35
 日に新たに38
 世間は正しい39
 無言の契約41
 峠の茶屋44
 不景気は好機46
 根本からのやり直し48
よりよく生きる
 道は無限にある53
 コロンブスの卵55
 広い視野に立って57
 欲を生かす60
 歴史の一コマ63
 自由の感激65
 社員稼業67
 自らを高める義務70
 この心がけこそ72
ともに成長する
 私の体験79
 適時適切に80
 成長の糧84
 厳しい先輩の下で87
 労使のあり方89
 調和があってこそ92
 適数の悪93
 対立と調和95
人間を知って
 利益だけでは101
 人間だけが102
 人間の本質はダイヤモンド104
 人間精神の復活を106
 人間の偉大さと衆知109
 適性があってこそ111
 自己認識114
 自省116
 若さの自覚を119
 正しい価値判断123
 躾けは添木125
 教育の大量生産127
 道徳と戦争130
 実利につながる133
 人間自身の教育を135
仕事に徹する
 感謝の心141
 サービスの大切さ143
 勤勉の習性145
 使命の自覚から149
 命をかける151
 矢面に立つ155
 仕事のプロ157
 責任の自覚こそ160
使命に生きる
 水道哲学165
 使命観に立つ168
 ダム経営170
 専門細分化の方が173
 借金経営では176
 利益の本質178
 適正利潤180
 税金に対する考え方182
 尺取虫の精神185
 生産と公害187
 生涯会わなくとも189
 人を集める192
 中小企業は強い164
 全員の経営195
社会とともに
 政治に生産性を201
 和を貴ぶ精神204
 国是が必要206
 政治に哲理を208
 法を守らねば210
 日本人としての主座212
 過当競争と適正競争214
 並足が一番216
 生産者と消費者は220
 人間の考えようで224
今日に思う
 石油危機への反省229
 不平不満はどこから233
 民主主義のはき違え235
 日本は完全独立を238
 弱点を知ることが必要241
 正しい国家意識を持って242
 七賢人ばかりでは246
 解決の道はない247