『若葉』と題した機関紙に松下幸之助が語り、綴った言葉の数々。その内容はあたかも祖父が大切な孫に贈る「手紙」のようなものでした。
まえがき
序にかえて
松下幸之助の"本心"がこめられた言葉の数々
もう三十年以上も前のことです。松下幸之助の考え方に賛同する人たちによって、人生のこと、世の中のことを語りあい、お互いを高めあうための自主的な勉強の「場」が生まれました。わずか二十二名、三グループから始まったその「場」の各メンバーと、幸之助 は真撃に向きあいました。
八十歳をこえてなお、人生を生きることにあふれんばかりの情熱をもっていた幸之助は、自身の思いや考えを言葉にして、メンバーのために創刊された活動機関紙に掲載しました。一般の方々の目にふれることなく、PHP研究所に保存されていたその言葉の数々は、まるで祖父が大切な孫に送った「手紙」に書き綴っているような、深い慈愛に満ちたものでした。
『若葉』と題したその機関紙を基軸に、各グループの活動は全国各地に連鎖的に広がっていきました。一時期は三千をこえるほどの数になったのです。この各地で生まれたグループを総じて、PHP友の会といいます。
幸之助は、彼・彼女らの集会に直接足を運んだこともありました。『若葉』には、毎号、幸之助の言葉や顔写真が載せられ、全国各地の会員に届けられました。幸之助自身、「『若葉』はいつできるのか」と毎号刷り上がるのを楽しみにしていたそうです。『若葉』という名称も、多くの案の中から幸之助が迷わず選んだものだといいます。昭和という時代の終わりとともに幸之助は永眠しましたが、没後も同志の方々によってこのPHP友の会の活動は続けられています。
次代を担う若者たちと接することを、幸之助は最期まで大切にし、老年になっても青春の二文字を心において生きた人間でした。その生き様から生まれる文章には、老年の温かみと青年の凛々しさがいつも同居していました。
PHP友の会発足の数年後には、松下政経塾を開塾しましたが、『若葉』への寄稿は、それとは違った、一人の人間としての社会への恩返しであり、自分を生かしてくれた世の中への草の根的な奉仕活動だったのかもしれません。
(中略)
経営者として大を成した松下幸之助が、若者たちに目線を合わせ、一人の人間として語りかけた言葉の数々、いわば幸之助の"本心"がこもったメッセージと、読者の皆さんが真正面から向きあっていただけたなら大変ありがたく思います。
そして本書の「手紙」の中で幸之助が告白していること ――幼いころに父からもらった言葉を人生の支えとして後生大事にしたように、本書にある言葉が、一人でも多くの読者の心に届き、その人生の支えとなれば、編者としてこれにまさる喜びはありません。
残暑の中で
PHP研究所 経営理念研究本部
目次
序にかえて | 1 | |
第一幕 | 松下幸之助からの手紙 ―大切な人たちへ― | 11 |
父の言葉 | 12 | |
すべてがうまくいく秘訣 | 18 | |
豊かさと厳しさ | 24 | |
疑いと信頼 | 29 | |
道 | 34 | |
ともに生きる | 39 | |
総決算 | 44 | |
腹の立つこと | 49 | |
幸福と不幸 | 54 | |
停滞と進歩 | 59 | |
腹をすえて事にあたる | 63 | |
ありがたさ | 68 | |
適時適切に | 73 | |
第二幕 | 松下幸之助との対話 ―心の持ち方・伸ばし方について | 79 |
知恵と知恵との話し合い | 80 | |
神さまのような聡明さ | 86 | |
ほんとうの素直な心 | 95 | |
素直な心―あらゆる活動の源泉 | 101 | |
凡人が求めるべき姿 | 111 | |
感謝の心は幸福の安全弁 | 116 | |
"人を見たら泥棒と思え"ではいけない | 122 | |
心の健康を養うもの | 128 | |
自分の夢を託すもの | 134 | |
第三幕 | 松下幸之助との対話 ―人生を幸せにする考え方について | 141 |
幸福の概念 | 142 | |
仕事の基本目的 | 147 | |
女性と男性 | 149 | |
理論と実践 | 154 | |
自己観照という反省 | 157 | |
正義を考える | 162 | |
野心と素直な心 | 165 | |
徳育が人間をつくる | 168 | |
まず人間を知ること | 170 | |
一人ひとりの目覚めから始まる | 175 | |
迷える子羊にはなるな | 179 | |
共通の宝 共通の使命 | 183 |