「私」の怒りは許されない。大統領といえども「私」の怒りは許されない。しかし大統領として「公」の怒りをもたないような大統領は、首相として「公」の怒りをもたないような首相は、国民を腑抜けにしてしまわないかという感じがするんであります。
『松下幸之助発言集9』(和歌山市制施行80周年の講演会・1969)
解説
「公の怒り」とは具体的にどういうことでしょうか。当時、大学紛争が横行して、その学生たちの行動や、学生たちを正しく導くことができていない大学や先生たちに、松下幸之助は「怒り」をもっていました。そうした背景があって、今回の発言があるのですが、幸之助はこう続けています。
“会社でも、しっかりしている部長は必ず一面に怒りをもっております。個人の怒りでなく、部長として、こういうことでは困るという怒りをもっています。一方で部下をかわいがり、一方でこんなことをしては困るという怒りをもっていると、部下は信頼して働きます。これは国といい、市といい、町といい、一家といい、みな一緒だと思います。そういうことを忘れた大学というものは、いまのように乱れると思うのであります”
幸之助のいう「公の怒り」の輪郭がさらにみえてくるようです。つまり幸之助にとって、公の怒りとは、何が正しいかを考え、なすべきことをなす、私心を捨てて公明正大を貫くといった姿から生まれてくるものでした。そしてその怒りは、乱れをもたらすのではなく、お互いの信頼を高めあい、より望ましい姿を生みだす基となると信じていたのです。
実際に幸之助は、そうした姿勢を自社の従業員に求めました。自らが定めたパナソニックの指導理念である“遵奉すべき七つの精神”の二番目には“公明正大の精神”が掲げられています。
学び
「私の怒り」から離れよ。
「公の怒り」をもて。