不景気でも、これは天然現象ではありませんね。みんな心の所産ですわな。人々の心の所産として不景気も、政治の混迷も生じているのです。どれも人々がみずからつくり出した問題で、天然現象でも何でもない。
『松下幸之助発言集10』(京都政経文化懇話会・1976)
解説
経済のバブル現象は、人間の欲望がふくらみすぎて実体経済を超えたときに生じる。そしてそのバブルは、いつかかならずはじける――こうした認識は、もう経済学者だけでなく、多くのビジネスパーソンにとっても常識といっていいことでしょう。もちろんこの現象自体も、松下幸之助の考え方からすれば、人類発展の歴史の一コマととらえることができます(第14回参考)。しかし、バブルを生み出しては、はじけさせるというくりかえしが人為的なものであると考えるなら、やはりその経済現象がほんとうに未来の人間の繁栄・平和・幸福につながるものなのか、という視点から眺め直すことも、幸之助の考え方に従えば必要になってきます。
今回の言葉をみる限り、1970年代の幸之助は、好況・不況が、人間の心がつくり出すものであることを確信していたようです。当時の日本といえば、オイルショックから派生した危機、つまりグローバルな経済危機を、なんとか乗り越えたときでした。「買占め」「狂乱物価」という言葉を日本人全体が体験したこの不況期や、遡って1929年からの世界大恐慌、昭和恐慌といった数々の経験によって、幸之助が景気・不景気観を養っていったのは間違いないでしょう。
日本経済全体も、幸之助と同様に学習し、不十分であっても、つねに新たな「手」を打ち、そして多くの失敗を重ねてきました。近年のグローバル化が定着した社会においては、マクロ経済の動きは、私たちの日常生活、ミクロ経済の動きに直結するようになりました。企業努力によって、安価で良質な商品が街にあふれる時代になりました。株価や円の動きが、みずからの事業の結果に大きく影響し、世界のマネーの動きを身近に感じる、いや感じざるをえない時代になりました。そして現在、日本経済の舵取り役となる政府、さらには財務省、金融庁、社保庁、日銀の「打つ手」を、国民一人ひとりが注視して、間違い・不明があれば問いただし、行動をおこして、正しい姿、望ましい姿に近づける。そういうことが、ウェブ社会の急速な発展により、大いに可能性をもつ時代になりました。幸之助が望んでいた、国民全体の衆知を集めた政治が実現できる時代になっているのです。
学び
政治に参加しなければ。
自分のためにも、これからの人たちのためにも。