七度転んでも八度目に起きればよい、などと呑気に考えるならば、これはいささか愚である。一度転んで気がつかなければ、七度転んでも同じこと。一度で気のつく人間になりたい。
『道をひらく』(1968)
解説
「七転び八起き」のように、諺や故事成語には、使う人・聞く人によって意味のあるものとないものがあります。たとえば、あの人生訓に満ちた『老子』からきている「大器晩成」という言葉、ほかには「鶏口となるも牛後となるなかれ」といった諺なども、懸命に努力したのに失敗してしまった人への「励まし」で使われるにはいいかもしれませんが、「なぐさめ」として使われ、聞かれてしまうと、あまり意味がないように思われます。
考えてみれば、大器は「大器」として「晩成」するのであり、「晩成」するまでのあいだも、つねに小さな器としての成功を重ねていかなければならないはずです。何度も小さな成功を積み重ね、器に土が上塗りされて、大器としての形をなしてくるのではないでしょうか。であれば、一つの失敗を次に生かす、二度と同じ失敗はしない、三度目はないのだという気概がなくなったとき、「大器」が、現実に大器となる可能性をも失ってしまうのかもしれません。
この松下幸之助の言葉にも、そんな意味合いが多分に含まれているように思われます。「いつか」ではいけない。「いま」なのだ――叱咤激励する幸之助の声が聞こえてきそうです。
学び
三度目はない。
失敗は二度と繰り返さない。