家が貧困であったがために小僧奉公に出されて幼いうちから商人としてのしつけを受け、世の辛酸を多少とも味わうことができた。からだが生来弱かったためにやがて人に頼んで仕事をしてもらうことを覚えた。学歴がなかったためにすべての人につねに教えを乞うことができた。あるいは九死に一生を得たような何度かの経験を通じて、自分の幸運、強運を信ずることができた。そういうふうに、自分の運命をいわば積極的に考え、それを知らず識らず前向きに生かしてきたからこそ一つの道がひらけたのだということも考えられるでしょう。これは私だけでなく、お互い一人ひとりについても同じことがいえるのではないでしょうか。

人間としての成功』(1989) 

解説

 “人間は、90%までは、運命によって決められている”というのが松下幸之助の持論でした。決して運命論者ではないと言いつつも運はあると信じており、人生について語るとき、「運命」「運」によく触れました。また人物を観る際にも運を重視し、野田首相ら多くの政治家を輩出する松下政経塾の採用面接でも、運の強さを確かめたといいます。といっても、運の強さを物量的に測定することなどできませんから、どう見極めたかは本人のみぞ知るところです。しかしこう推測することができるでしょう。幸之助は“自分は運が強い”と信じていた。運の強い人間とは、今回の言葉にあるような、自らの運命を積極的に考え、たとえ困難にあってもその運命を受容し、前向きに生かす人であり、そうした志向性がその人の姿や言動に感じられるかどうかといった直観的な人物鑑定をしたのだろうと。

 ちなみに幸之助が運命を語るとき、“天命”という表現もよく使いました。“人間はそれぞれ天命をもっている。人事を尽くして天命に従うのが、人間の、一つの大きな生活態度”と考えていたようです。この天命という言葉を聞いて、日本人の多くが思い出すのは『論語』の“三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る”でしょう。昭和の大碩学・安岡正篤師(故人、元松下政経塾相談役)の解釈によれば、天命を知るとはすなわち“知命”であり、人間50歳になると自分のほんとうの存在を意識する、“かくあった。かくある。かくなすべきである。かくなさねばならぬ”ということがはっきりする、といった意味合いがあるそうです(参考:『松下政経塾講話録 PART2』PHP文庫)。

 幸之助が50歳のときといえば、太平洋戦争が終結した年でした。終戦の詔勅が発せられた8月15日の翌日、多くの国民が悲嘆にくれるなか、幸之助は即座に行動を開始し、平和産業への復帰、祖国の再建を社員に呼びかけます。その後、戦争による経営面での大損害だけでなく、占領下におけるGHQからの財閥家族の指定などで、精神面でも人生最大の困難に遭遇します。しかし産業人として“かくなさねばならぬ”という信念を37歳のときにすでに固めていた幸之助は、その困難を見事に乗り越え、松下電器を成長発展させていきます。今回の言葉で述べているように、困難にあっても、自分の運命を積極的に考え、生かして、一つの道をひらいていったのです。 

学び

どんなに困難な境遇にあっても、自分は幸運に恵まれている、運が強いと思える人でありたい。