人間は、ものの見方一つで、どんなことにも堪えることができる。どんなつらいことでも辛抱できる。のみならず、いやなことでも明るくすることができるし、つらいことでも楽しいものにすることができる。みな心持ち一つ、ものの見方一つである。同じ人間でも、鬼ともなれば仏ともなるのも、この心持ち一つにあると思う。そうとすれば、人生において、絶望することなど一つもないのではあるまいか。
『道をひらく』(1968)
解説
「同じ人間でも、鬼ともなれば仏ともなる」。松下幸之助から直接指導を受けた方々が語るエピソードからは、幸之助に内在するその両極性を垣間見ることができます。失策を犯した事業責任者を厳しく叱責、業績悪化の責任をとるよう追い詰め、突き放す。しかし回復への道筋は示して、自主的に取り組ませ、成果を出すまで見守る。恒例の年末大掃除で、きれいになった工場の中で便所だけが誰も掃除をしていない。怒り心頭で「もうお前らには掃除はまかせん」と、一人で便所掃除に向かう。「申し訳ない」と後に続いた部下とともにようやく掃除を終えると、「汚いのによう辛抱してやってくれたなあ」と笑顔で感謝する。大事小事にかかわらず、幸之助のそうした姿は、当時の部下の方々にとって、実際に鬼であり仏でもあったことでしょう。
弊社では幸之助の顔写真を数多く保存・整理していますが、温かな笑みを浮かべるもの、愛嬌のあるもの、はたまた厳しさが前面に出て、気迫が漲っているものと、まさに仏と鬼の形相を見ることができます。その表情の豊かさは、人生体験の幅の広さを容易に想像させます。人生をいわば“生きた芝居”と考えていた幸之助は、経営者の役柄を演じきった名優だったのかもしれません。また、顔だけでなく文章や発言にも人物の性格はあらわれるものですが、幸之助の語る言葉にはどこか仏と鬼の両極性が同居している感があります。やさしげな言葉の奥に感じる厳しさ、強さ――。今回の言葉も、包み込むようなやさしさとともに、厳しく叱咤されている、そんな感じを受けとることができます。「人生において、絶望することなど一つもないのではあるまいか」。絶望と向き合った経験のある人間でなければ、おいそれと語れる言葉ではないでしょう。しかもすべては自分の“心持ち一つ”というのですから、受け止めようによっては、実に厳しい言葉です。
幸之助がいうように、いやなこと、つらいことを明るく楽しいことにする。この対極を逆転させる心を我々はどうやって得ることができるのでしょうか。その心を鍛え、磨き上げる作業こそが、以前のコラムでも触れた自己観照であり、日々の自省でした。そうして涵養される“素直な心”は、水のごときものとなります。流れる水は眼前の大岩を障害とせず、流れるべき方向へと自然に流れていきます。水にとって、岩石は“つらいもの”ではありません。この水のように生きるのが、素直な心の持ち主です。喜びを持って楽しく生きる。それが人間本来の姿と信じた幸之助にとって、どんな境遇にあっても素直な心で楽しく明るく生きるよう日々心がけることが、人間としてごく自然な、あたりまえのことだったにちがいありません。
学び
自分の心を鍛え上げる。
どんなことも楽しく明るいものにする心に磨き上げる。