不況というのは、大暴風雨に直面するようなものです。大暴風雨になれば、その中を歩いていかなければなりません。歩かずに退避する、というのもときには一つの方法でしょうが、企業経営において退避ばかりしているというようなことは許されません。やはり最後はいやでも立ち向かって歩かなければなりません。それには、そのための覚悟をし、用意をすることです。傘なり雨具をもっと丈夫なものにするとか防寒服でも着るとかの用意をすることです。そして、私の体験からいきますと、落ち着いてよく考えさえすれば、雨の強さ、風の強さに応じて、傘をさす方法もありますし、風よけをするような心がまえも湧いてくるものだと思います。
『経営のコツここなりと気づいた価値は百万両』(1980)
解説
“窮すれば通ず”という言葉があります。窮地に追い込まれ、行きづまったときこそ、思わぬ活路・突破口を見出すことができることをいいます。ほかにも“身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ”といった言葉、つまりわが身さえも犠牲にする覚悟があって、道は見出せるのだという諺もあります。こうした古くからの人生訓を“真理”というのでしょう。
しかし松下幸之助は、そうした真理にさらに“補足”をした人間だったといえます。さしずめ“窮すれば最善最大の努力をして通ず”とすれば、幸之助の行き方にぴったり当てはまる言葉になるでしょう。結果として天の啓示に恵まれることもあるかもしれませんが、それを頼みとせず、あくまで自力救済の覚悟で専心努力するのが、幸之助の求めた行き方でした。やむを得ない「大暴風雨」に遭って、逃げ場のない崖っぷちにいたっても、諦めることなく、最善最大の努力で立ち向かう。そうしてこそ“通ず”ることも、瀬に“浮かぶ”こともできる。運や天命を信じつつも、徹底したリアリストとして生きた経営者の姿が、今回の言葉にも垣間見えます。
ちなみに今回の言葉は、昭和50年前後の日本経済全般を意識しての発言が元になっています。オイルショックによる急速なモノ不足と物価上昇のなかで、多くの日本企業が苦境に立たされ、その非常事態に政府は物価抑制にのり出し、松下電器も一部商品の値上げ延期といった努力を要した時期でした。当時、幸之助はすでに相談役であり、経営の第一線は退いていましたから、現役世代の経営者たちへの叱咤激励の意もあったのでしょう。“生きるか死ぬか、会社でいうなら存続か倒産かの真際にいる覚悟をもって、最大の努力をしているか!”――そうした思いがあったのかもしれません。
昭和53年に刊行された社史のまえがきには、このオイルショック以降の不況期を松下電器にとっての第三の危機(=大暴風雨)とし、それまでにも大きな危機に二度遭遇したと幸之助は記しています。一つは昭和恐慌期、もう一つはもちろん太平洋戦争後の混乱期です。今回の言葉で「私の体験」と述べた幸之助の脳裏に浮んでいたのは、きっとその二つの時代だったにちがいありません。いずれもみずからの意志や努力ではいかんともしがたい外部要因がありましたが、それでも最大限の自助努力で活路を見出した体験が自然にいわせたものだったのでしょう。
学び
どんな苦境にあっても道はある。
覚悟して、落ち着いて考えて、努力すれば、道は必ずひらけてくる。