苦難がくればそれもよし、順調ならばさらによし、そんな思いで安易に流れず、凡に堕さず、いずれのときにも心を定め、思いにあふれて、人一倍の知恵をしぼり、人一倍の働きをつみ重ねてゆきたいものである。

道をひらく』(1968)

解説

 “これぞ!松下幸之助”といえる今回の言葉の中の「心を定め」るという表現を、幸之助は好んで使いました。人間の心というものについて並々ならぬ関心をもっており、別の著作には、心の“違いを見る顕微鏡というものがあったとしたら……”といった記述もあるほどです。また、幸之助にとって繁栄とは物質・精神の両面の繁栄、すなわち物心一如の繁栄を意味しました。幸之助の、この心に対する強い探究心と独自の認識は無限の広がりをみせ、ついには、宇宙には科学によって発見されるような物的な法則があるとともに、心的な法則も存在するはずとして、みずからの思索、PHP研究の対象にしていました。

 閑話休題、人間の心を、孫悟空の如意棒のように融通無碍で伸縮自在の心を、進むべき方向にぐいと伸ばしていけるよう安定させる。幸之助が心を定めるというときには、そうした意味合いが深層にあります。仏教用語に “三昧”という言葉があって、精神統一ができた、心の安定した状態になることをいいますが、それと近似した状態になることと理解してもいいでしょう。実際に幸之助は、自身のモットーである素直な心になるための方法について、こんな説明をしています。

 

「たえず素直になるということを念頭におき、それを口に出して唱えるわけです。仏教においては、“念仏三昧”というようなこともいうそうですが、この場合はいわば“素直三昧”というようなことにもなるでしょう。しかもそれは、自分一人でも素直三昧をすると同時に、互いにそういう姿を生み出していくわけです。そういう素直三昧というような姿をお互いがともどもにあらわしていくならば、何を考えるにも素直に、何をするにも素直に、というようにおのずと心がけあっていくようにもなるでしょうから、そこからしだいに、お互いともどもに素直な心で物事を考え、判断するような姿に近づいていくこともできるのではないでしょうか」

 

 ただし口に出して唱えれば、それで素直な心になれるわけではなく、素直な心の意義を十二分に理解し、素直な心そのものを養っていくことをたえず心がけなければいけない、と添えています。

 お釈迦さまのように、悟りを得ることに一生心を定めて生きることなどは、凡人には実践も想像もしがたいことですが、素直になるという一点に集中し、お互いがどんなときも素直な心で考え、行動するということに心を定めるのなら、なんとかとり組めそうな気がする――。幸之助の“素直な心になりましょう”という世の人への提唱は、そうした意味でいまも多くの人をひきつけているのでしょう。そして、いついかなるときも心を定めることができる人は、順調よし、苦難またよしと考えることのできる、素直な心の持ち主であるはずです。

学び

どんなときでも、心を定めて、前進したい。

同時に、素直な心になることを目指したい。松下幸之助”といえる今回の言葉の中の「心を定め」るという表現を、幸之助は好んで使いました。人間の心というものについて並々ならぬ関心をもっており、別の著作には、心の“違いを見る顕微鏡というものがあったとしたら……”といった記述もあるほどです。また、幸之助にとって繁栄とは物質・精神の両面の繁栄、すなわち物心一如の繁栄を意味しました。幸之助の、この心に対する強い探究心と独自の認識は無限の広がりをみせ、ついには、宇宙には科学によって発見されるような物的な法則があるとともに、心的な法則も存在するはずとして、みずからの思索、PHP研究の対閑話休題、人間の心を、孫悟空の如意棒のように融通無碍で伸縮自在の心を、進むべき方向にぐいと伸ばしていけるよう安定させる。幸之助が心を定めるというときには、そうした意味合いが深層にあります。仏教用語に“三昧(ざんまい)”という言葉があって、精神統一ができた、心の安定した状態になることをいいますが、それと近似した状態になることと理解してもいいでしょう。実際に幸之助は、自身のモットーであるえず素直になるということを念頭におき、それを口に出して唱えるわけです。仏教においては、〝念仏三昧〟というようなこともいうそうですが、この場合はいわば〝素直三昧〟というようなことにもなるでしょう。しかもそれは、自分一人でも素直三昧をすると同時に、互いにそういう姿を生み出していくわけです。そういう素直三昧迦さまのように、悟りを得ることに一生心を定めて生きることなどは、凡人には実践も想像もしがたいことですが、素直になるという一点に集中し、お互いがどんなときも素直な心で考え、行動するということに心を定めるのなら、なんとかとり組めそうな気がする――。幸之助の“素直な心になりましょう”という世の人への提唱は、そうした意味でいまも多くの人をひきつけているのでしょう。そして、いついかなる