その昔、お釈迦さまは、“諸行無常”ということを説かれました。この教えは、一般には“世ははかないものだ”という意に解釈されているようです。そこには深い意味はあるとは思いますが、そのような解釈をすることによって、現世を否定するようになり、生きるはり合いをなくしてしまうようであれば、これはお互いの益にならないでしょう。私はそのように解釈するよりもむしろ、“諸行”とは“万物”ということであり、“無常”とは“流転”というようにも考えられますから、諸行無常とは、すなわち万物流転であり、生成発展ということであると解釈したらどうかと思うのです。いいかえますとお釈迦さまは、日に新たでなければならないぞ、ということを教えられたのだということです。 

人間としての成功』(1989)

解説

 松下幸之助がいうように、諸行無常とは世のはかなさをいっていると多くの日本人が認識しているようですが、仏教用語の辞典などを見ても、そのような語義は明確化されていません。ならばお釈迦さまの本意とは、実際どうだったのでしょう。

 お釈迦さま、すなわちゴータマ・シッダールタは、釈迦族の王子として生まれ、幼少期に何不自由なく育つ中、世間の荒廃を見、次第に人生の苦に悩むようになり、ついには出家の道を選んで、苦行のすえ悟りを得る……というのが一般的な理解です。その偉大な足跡を生半可な知識で解釈することは避けるべきかもしれません。ただ幸之助のように、人の道に役立つよう、先人・偉人の知恵を善なる方向に生かすべく、自分なりに解釈することは、それもまたよし、としていいのではないでしょうか。

 考えてみれば、王族のお釈迦さまとは格段の差があるとはいえ、幸之助も富裕の家に生まれつきました。しかし、物心つくころには、父の米相場での失敗により家が没落してしまい、どん底から人生をスタートすることになります。“商売人として身を立てよ”という父の言葉を一生の支えとして生きることを宿命づけられた幸之助は、食べるために、まず仕事をしなければなりませんでした。

 商売、事業に成功してからも、苦難は襲いかかりました。太平洋戦争敗戦という国難にあたり、幸之助自身、身内、さらには親族同様に深い絆で結ばれた社員とその家族の生活を背負って、上を向いて歩いていかねばなりませんでした。そうした運命に素直に従って生きた人間だからこそ、お釈迦さまの教えを尊重したうえで、悲観的ではなく、楽観的にとらえた。それはごく自然な業だったといえましょう。 

学び

先人・偉人の教えを、知識にしばられず、先入観を持たず、素直な心でみつめて、自分に生かしていく。