山中鹿之助(鹿介)といえば戦国時代の有名な豪傑である。その鹿之助はいつも「七難八苦を与えたまえ」と神に祈っていたという。それをある人が不審に思って、その理由をたずねると、鹿之助は、「人間の心、人間の力というものは実際にいろいろのことに出合ってみないと自分でもわからない。だから、いろいろな困難に直面して自分をためしてみたいのだ」と答えたという。「憂きことの なおこの上につもれかし かぎりある身の力ためさん」という歌が彼の作として伝えられている。人間が神仏に祈るという場合、その内容はいろいろあるだろうが、概していえば、いわゆるご利益を願うのがふつうだと思う。幸せを祈ったり、健康を祈ったり、あるいは金儲けを祈るということはあっても、困難や苦労を与えてほしいと願う人はまずほとんどいないのではなかろうか。だから、七難八苦を与えたまえという鹿之助の願いを周囲の人が不思議に思うのは当然だといえよう。しかし、鹿之助はあえてそれを祈った。それは困難によって自分をためし、自分をきたえたいと考えたのでもあろうが、同時にそのようにみずから祈ることによって、われとわが心を励ましていたのではないだろうか。
『指導者の条件』(1975)
解説
「祈る」ということについて、松下幸之助はこう述べています。“祈りは、自分の心を清純にして、小知小才に頼らず、素直に、与えられた自分の生命力を完全に生かしきるために行うのだと思います。人間は宇宙根源の力から、実に偉大な生命力を与えられているのです。ところが、私たちはとかく自分の勝手な意欲に迷い、この与えられた力を素直に生かしきらない場合が多いのです。そこで、自分の我欲を捨て、清純な心になって、この力を素直に発現させるために、「祈り」ということを行うのです。ちょうど鏡の前に立って、自分の身の容姿を直すのと同じように、自分の心の容姿を正すために「祈り」があるわけです。ですから、神や仏に、求めたり頼んだりすることは、正しい「祈り」のしかたではないと思います。もっとも、お祈りするときには、神や仏にお願いしたりすがったりするという、通念的な潜在意識があり、また人情として、こういう言葉が出てくることは当然ですから、別にこれを止めるわけでありません。ただ「祈り」の本質とはどういうものであるかということを、はっきり知っていなければならないと思います”。(『松下幸之助発言集37』)
この幸之助の“祈り”に対する考え方に立てば、山中鹿介は、自分の能力というものを最大限発揮するうえで「困難」が必要不可欠であるとして、幸之助のいう“自分の生命力を完全に生かしきる”ために終生、「困難」に身を置こうとしたと認めることができるでしょう。
では幸之助はこの鹿介という存在を知って、どう感じ、何を考えたのでしょうか。「われとわが心を励ましていたのではないだろうか」と見抜いたのは、幸之助自身が、そうした心持ちで祈ることを幾度となく経験していたからなのかもしれません。そして歴史上の人物に学ぶということは、幸之助のように、自己の体験と重ね合わせながら、人間が歩むべき正しい道を探りあてることだといえるのではないでしょうか。
学び
困難を与えたまえ。
きっと乗りこえてみせる。