今はただおたがいに、懸命にわが道を歩むほかないであろう。懸命な思いこそ、起伏があろうと、坦々としていようと、ともかくもわが道を照らす大事な灯なのである。
『道をひらく』(1968)
解説
どんな道であってもそれがわが道。こうした人生観に違和感をもたなくなるまでには、それなりの歳月が必要でしょう。しかし一種の諦念ともいえるこの観方を、松下幸之助は比較的若い時期にもつことになります。それは生来病弱であり、死を意識して生活しなければいけない青年期があったからでした。
人生のマイナスをプラスに転ずる。幸之助の行き方そのものであり、これまでのコラムでも再三触れてきたことです。そこには“熱意”とか、“志”とか“夢”といった言葉がありました。今回の「懸命な思い」も同様の言葉ですが、こうした人生の言葉の根底には、文字通り、命を懸けて生きなければならない体験があったのです。
ちなみに今回の言葉の前段で、自分は起伏の激しい道だと思っていても、神のような立場から見れば、坦々たる大道に見えているかもしれないと幸之助は言っています。そのように、新しい視点に自分を晒してみることは、みずからの思考の鍛錬に大いに役立つのではないでしょうか。たとえば、よく知られていることですが、すべては螺旋的に発展していくとした哲学者ヘーゲルの視座を知るだけで、視野がぐっと広がるような感覚を覚えるはずです。螺旋状に上昇する立体構造を、神のような立場(上方)から見たなら平面に見え、その螺旋の道を歩く人がいたなら、ぐるぐると円を回っているように見えるでしょう。でも横から見たなら、螺旋状の山道を登っている。上昇し続けているのです。
こうした視座をみずからの人生・仕事の場にあてはめて考えると、新たな創意工夫が生まれる可能性が高まるはずです。しかしそういう思考の武器を身につけても、やはり「懸命な思い」なくして起伏の激しい道を乗り越えていくことはできないと考えるのが、幸之助です。
学び
わが道をゆく。
懸命な思いで歩いてゆく。