真々庵の開所以降、『PHP』誌や他社の雑誌に掲載する松下幸之助の文章は、主にPHP研究所の研究員が執筆していました。幸之助は、その内容と共に書き方についても指示を出した様子が『研究日誌』に記録されています。
昭和36(1961)年11月29日、幸之助は「今まで『PHPのことば』の解説は説明調であったが、これからは随筆調の特色あるものにしたい」と言いました。昭和37(1962)年11月10日には「物事を限定して言いきってしまわない」と指示を出し、昭和38(1963)年5月4日にも再び「言いきることはなるべく避ける。とくにことばの言い廻しに注意する」としています。
昭和39(1964)年8月6日には、「空理空論ではなく、早くて20分、おそくて40分には理解可能のことを考える。これはいわば通俗哲学論である」と具体的な指示を出しました。読者が約6,000字の文章を30分程度で読んで理解することを目安としたことが分かります。同年12月18日には「確信調ではなく私はこう思う調で書くこと」、昭和40(1965)年1月26日には表現は「もっとやわらかく」と強調しました。
『PHP』誌の本格的普及が既に始まっていた昭和41(1966)年1月5日には、松下電器とは別にPHP研究所独自の方針発表が初めて行われました。「11月3日までにPHP誌の頒布部数を20万部にしよう」と目標を掲げると同時に、「雑誌の内容を充実させていかねばならない」とか、「研究にも力を入れ、そのエキスをPHP誌に注入してゆかなければならない」と述べています。「PHPのことば」については、「生活に直結したどうしてもつくらなければならないものをよく吟味して作ろう」とか、無理に数を増やす必要はなく、「作文を売ってはならない」と心構えを言いました。同年5月18日の朝食会では、「100のうち1つでもよいものができれば、その1つを徹底的に研究して、たとえあとの99が悪いものでも、それらを必ずよいものにすることができるものだ」と述べています。