昭和46(1971)年3月2日にクラブ関西で「機械記者クラブ会見」が開かれました(速記録No.1260)。会見で松下幸之助は、まず景気の見通しや取るべき処置など日本経済の話から始めています。記者が熱心に質問したこともあって景気の話が続き、会見を開始して48分以上過ぎてから、思い出したようにPHP研究所所長退任の話を始めています。

 「これは今日、発表したいと(考えていました)。もう決心、これぞ決心したわけや」と、所長を退任することを初めて公に述べています。また、「この人(=錦茂男・新所長)一番最年長ですからね、所員の中で。あとは皆、三十代、二十代ばかりですからね。だからそこに新しいものが生まれるだろうと、こういうように期待してるんです」


 「PHPはもっと発展させたいと思うて僕は辞めるんです」と述べました。 会見から1週間後の『夕刊フジ』は、PHP研究所を取材し、幸之助の所長退任について大きく報じました(※1)。記事は錦・新所長の言葉を紹介し、当初は昭和45年11月ごろの所長交代を予定していたと報じています。また、幸之助の退任の動機について、財界研究所の三鬼陽之助氏が消費者運動の高まりを意識し、「PHP活動そのものはわるくないが、この時期には、やめるべきだ」と幸之助に忠告したことが大きな要因だと報道しました。



1)『夕刊フジ』昭和46(1971)年3月9日1面。