松下政経塾出身の初の総理大臣が誕生してから、もうひと月以上が過ぎました(2011年10月時点)。有識者から一般の方々まで、多くの方々が関心を寄せ、その一挙手一投足が注目されています。その政経塾創設者である松下幸之助が、じつは「総理大臣の要件」について提言したことがありました。 昭和41年のことです。
(2011.10.7更新)
詳細
当時、松下は「あたらしい日本・日本の繁栄譜」と題して、日本の政治・教育・経済といった多岐分野にわたり、その問題点について言及した論考を、『PHP』誌に毎号掲載していました(昭和40年2月号~昭和46年5月号、計75回にわたって発表され、『実業の日本』にも昭和40年2月1日号~昭和42年3月15日号まで27回分掲載された)。
この論考は当時大いに反響を呼び、現にその頃から『PHP』誌の発行部数も急上昇、昭和41年に10万部の大台突破、42年に25万部、43年には50万部、44年新年号ではついに100万部を突破しました。
今回は、そのなかで 「だれが総理大臣になろうとも」 という見出しをつけた内容(『実業の日本』昭和41年4月1日号、『PHP』昭和41年4月号に掲載)を全文紹介いたします。
またあわせて、昭和52年に刊行された松下幸之助著『私の夢・日本の夢 21世紀の日本』の終章に収めた「首相の演説」をご紹介します。本書は、近未来ストーリー仕立てで日本の国政のあるべき姿を描いたものですが、ストーリーのなかで登場する近藤首相の演説には、松下が思い描いた「総理大臣のあるべき姿」が見てとれます。30年以上前の作品ですので時代状況にそぐわない面もありますが、グループサイト「PHP Online 衆知」にて全文紹介していますので、ぜひご覧ください。
野田首相(2011年10月当時)には、ぜひこの松下幸之助初代塾長の想いをしっかりと受け止めて、立派にその任務を遂行し、日本国民の期待に応えていただくことを強く要望したいと思います。
PHP研究所経営理念研究本部
だれが総理大臣になろうとも...「あたらしい日本・日本の繁栄譜」より
聖職中の聖職である総理大臣
ここ数回は、昨今大いに世論をにぎわしている財政や物価、教育や道徳、治安というものが、二十年後、三十年後のわが国においては、いかにあるべきかという問題について愚見を申しあげてきたが、今回は少々話題を変えて、新しい日本における政治家、なかでも総理大臣について考えてみたい。つまり、近い将来において期待される総理大臣像というものを、私なりに考えてみたいと思うのである。
だから、その政治の仕事を直接担当する政治家の職責は非常に重かつ大であり、見方によっては、これは全国民の生命を担う尊い聖なる仕事、すなわち聖職であるといってもよいであろう。わけても政治家のリーダーともいうべき総理大臣たるの地位は、要職中の要職、聖職中の聖職と考えられる。それだけに総理大臣たらんとする人は、その国の最重要の地位に真に値する人物でなければならない。
今日のわが国においては、天皇が国家の象徴であり、いわば国民の精神的な柱になっている。それは現行の憲法にも明確にうたってあるし、今後もし新しい日本に即した憲法がつくられるとしても、そこにも同じようにはっきりとうたわれることであろう。それはそれでよい。けれども、わが国を実際に運営していく上でだれが国家の柱になるのかといえば、やはりこの総理大臣であろう。その柱さえしっかりしておれば、外で少々風が吹こうが、内で暴れようが、家はびくともしないものである。だから、国家の実際上の柱たるべき総理大臣の地位につく人は、日本の国をみずから背負って立つようなしっかりした人物が望まれるのである。
もちろん、総理大臣になる人といえども、同じ人間である。その人には長所もあれば欠点もあるだろう。またものの考え方、事の処し方にしても、それぞれ特徴があるにちがいない。それは一面しかたがないことであるし、またそれはそれでよいと思う。しかしながら、以上のような総理大臣としての重責を考えるとき、たとえだれが総理大臣になろうとも、これだけはぜひとも備えていなければならない資格というか、基本の要件というものがあるはずだと思う。
そこで今回は、新しい日本に期待される総理大臣たるの要件について、ここでしばらく考えてみたいと思った次第である。
ケネディ大統領の信念に学ぼう
さて、だれが総理大臣になろうとも、これだけはぜひとも備えていなければならない第一の要件は何かといえば、私はその人が、国民を一様に愛し、その国を真に繁栄させようということに、力強い信念をもっているということだと思う。
もっとも、今日は民主主義の世の中である。だから総理大臣としても、決して独裁専制をしてはならない。多くの人々の意見を聞き、議会の協賛を得て事を運ばなければならないことはいうまでもない。それは国政に国民の総意を反映させるという点からも、きわめて重要なことだと思う。
しかしながら、そのように大勢の意見を聞かなければならないにしても、実際に政治を行なっていく上で最終的に事を判断し、いわゆる意思決定をし、その意思決定にもとづいて国政を進めていくのが総理大臣の役目なのである。その総理大臣がもしみずからの信念に乏しく、国民に対して正しいこと、今なすべきことは何であるかを訴えつつ、積極的にこれを指導していかないとするならば、やはり力強い国政は営めないにちがいない。
だから、一国の総理大臣たる者は、まず国民を一様に愛し、またその繁栄を心から願いつつも、確固とした施政の方針を立て、適時適切にどしどしと事を運んでいく信念の人でなければならないと思うのである。
アメリカの故ケネディ大統領は、かつてその就任式の演説の中で、「アメリカ国民の諸君! 諸君は今、国家に対して何をしてくれと望むべきではない。諸君が国家に対して何をなしうるかを問うときなのである」と、非常に格調の高い、しかも信念に満ちた言葉で、国民の自覚と協力とを要請したという。彼は若くして大統領に選ばれたが、そのときほんとうにそう思ったにちがいない。また、そういうことを国民に要望するのは決して間違っていないと判断したにちがいない。だから信念をもって堂々と国民に訴えたのであろう。アメリカ国民また、この烈々たる要請に非常に感銘して、ケネディを深く信頼するとともに、国民としての義務なり責任の自覚を、いっそう強めたのではないかと思われる。
このケネディの信念に満ちた姿にこそ、私は総理大臣たる者が見倣うべき、指導者としての基本の心がまえがあると思う。すなわち、その国の目標なり使命を達成するという大局的な見地から、全国民に対しても訴えるべきは訴え、正すべきは正していく、必要であれば叱咤〈しった〉激励をしていく、そういう国政担当者としての権威ある姿なのである。もしそれがほんとうに国のため国民のためになることであれば、国民も必ずやその訴えに賛同し協力していくであろう。
これは、たとえば各党各派あるいは各団体に対する態度についても同じことがいえるのであって、総理大臣たる者には、与党も野党も派閥もない、すべてそういうものを超越して、甲も乙も丙もすべて分け隔てなくこれに対し、これを指導していく義務というか責任というものが課せられていると思うのである。
みずからの意見にまっ向から反対する人々をも包含し、その成長を心から望むということは、人情としてなかなかできにくいことであるが、しかし、そういういわば小乗的な立場にとらわれることなく、大乗的な見地に立って全国民の共存共栄を求めていくのが、総理大臣たる者の務めなのである。また、そういう広大な気宇をもって初めて、与野党の別なく、またいかなる団体に対しても、誤りは誤りとして正し、善は善として認めていくというような、真に全国民のリーダーたるにふさわしい毅然〈きぜん〉たる態度が示せるのだと思う。
したがって、だれが総理大臣になろうとも、総理大臣たるべき第一の要件は、まずその人が国家国民全体を隔てなく愛し、その繁栄を正しく力強く生み出そうという信念をもつということでなければならない。いいかえれば、そういう力強い信念をもっていない人は総理大臣になるべきではない、いや、決してなってはならないと思うのである。
啓蒙者的な識見をもつこと
この世の中には、道理の分かる人もいればあまり分からない人もいる。ただその割合は必ずしも千人対千人、つまり半々ではないだろう。ときには分かる人百人、分からない人千九百人という場合だってあると思う。そういう場合は、国民の声もいきおい衆愚になりやすいが、しかしそのときにこそ、総理大臣たるべき人が単にその国民の言うなりになるというのではなく、「お互いの繁栄と幸福のためには、もっとこういうよい方法があるのではないか」というように、より広い視野、より高い識見のもとに国民を啓発し目覚めさせ、しかるべく導いていかねばならない。総理大臣はそういう啓蒙者的な指導者でなければならないと思うのである。さもなければ当時の国民の誤った判断から、一国がとんでもない方向へどんどん進んでいってしまう、ということにもなりかねないであろう。
したがって、このような高い識見を備えていることが、私は総理大臣としての第二の要件だと考えてよいと思うのであるが、しかしここで大事なことは、高い識見をもつということは必ずしも博識を意味しないということだ。
総理大臣は軍師ではなく大将である
これは総理大臣の場合もまたしかりであろう。たとえその人が社会全般の知識に通じているとしても、高い識見をもっていなければそれは何の役にも立つものではない。逆にいえば、高い識見さえあれば、広い知識を人々から集め、それを縦横に生かして用いることができると思うのである。総理大臣は軍師ではなく大将なのである。そのことの認識を誤ってはならないと思う。
議会は決して言論の雌雄を決する場所でもなければ、質問や答弁の点数をかせぐ場所でもない。そうではなくて、国家の繁栄と国民の幸福に直結した政治のあり方を、真剣に考えあう場所なのである。これからの日本においては、その点特に政治家の自覚と理解によって、よりいっそう実り豊かで能率的な議事運営が営まれることを期待してやまない。
話が横道にそれたが、いずれにせよ総理大臣たる者は、力強い信念とともに、高い識見をも兼ね備えていなければならない。これが、だれが総理大臣になろうとも、ぜひとも欠かすことのできない第二の要件だといってもよいと私は思うのである。
生命をかけるほどの責任感
たとえば会社の経営者にしても、その経営の仕事にみずからの生命をかけ、いっさいの責任はわれにありと言い切るような人でなければ、ほんとうに徹底したよい仕事はできないし、また世間からも従業員からも心からの信頼を受けることはできないのである。教育者や文化人、宗教家、政治家その他についても同じことであろう。そして、国政の最高責任者ともいうべき総理大臣には、特にその点が最も強調されなければならないと思うのである。
ともあれ、だれが総理大臣になろうとも、その人はこの地位に最高の責任感を覚え、おのが生命をかけてその使命を果たしていく、そういう責任感のあつい人でなければならない。これが総理大臣たる第三の要件といってもよいのではないだろうか。
政治家を敬いこれに協力しよう
以上、新しい日本において期待される総理大臣たるの要件について、私なりに三つの点をあげてきた。すなわち第一に、その人が国家国民全体を心から愛し、その繁栄を真に求めようとする力強い信念があること。第二に、必ずしも博識は必要ではないが、何が正しく何が国家国民のためになるかということに、高い識見をもっていること。第三に、国政に関するかぎり、いっさいの責任はわれにありとするような責任感のあつい人であること。この三点である。
世に徳望という言葉があるけれども、総理大臣としての徳望というものも、以上の要件が満たされることによって初めて自然に身に備わってくるのではあるまいか。
もとより、総理大臣たる要件については、このほかにもまだまだいろいろと考えられるであろう。けれども、少なくとも以上のような点は、基本的な条件としてあげてもよいと思うのである。過去の歴史を見ても、そういう要件にかなった人物が総理大臣になったときは、その国の政治もおおむねうまくいったと思うし、またこれからの社会においても、そういう点を身に備えた総理大臣が立てば、その人はきっと国を富ませ、国民に満足を与えることができると思うからである。
だから、二十年後、三十年後の新しい日本における総理大臣は、ぜひともそういう人物でなければならない。また国民としてもそういう人物を選ぶように心がけ、また選びやすいような社会の仕組みをつくっていかねばならない。たとえば、そういう人物が総理大臣たるの地位につきやすくするために、一つには選挙法を改正したほうがよいということにでもなれば、そういうことを考えるのも大事であろう。とにかく、信念と識見と責任感のある人を総理大臣に選ばねばならないのだということを、お互い国民が正しく自覚認識し、そのためにできるかぎりの努力をしていくということが肝要なのである。
上記論考は、松下幸之助著『遺論 繁栄の哲学』に収録されています。現在、電子書籍のみにてご購入可能ですが、ご関心のある方はぜひご利用下さい。