昨今の「いじめ問題」など、課題が噴出し続ける日本の教育現場。

 いま日本国民にとって最大の関心事の一つとなっている「教育」のあり方について考え続けた、松下幸之助の論考・提言をご紹介します。 

(2012.8.10更新)

 

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 弊PHP研究所創設者・松下幸之助は、企業における人材育成の重要性を説くとともに、学校教育にも大いに関心を寄せていました。

 

 教育は国家百年の計ともいわれますが、教育問題に言及した松下の数多くの記録・提言に通底しているのは、「礼節」「道徳」「愛国心」といった、人間としての基本的側面を重視していたことです。

 

 そして、そうした日本人としての「躾」を義務教育でしっかりとおこなう一方で、「万差億別」の教育を実現することによって、人それぞれがそれぞれの才能を最大限発揮しつつ、調和のとれた、ともに生きともに栄える社会をつくり上げていく――それが松下の念願でした。 

 

 松下は、「大学が多すぎる」こと、教育の現場に「きびしさが欠けている」ことなど、いまも問題視されている課題にも触れていました。そして個々の現場での青少年教育については、みずからの企業人としての(人材育成面での)成功体験からか、青少年に対してより、その青少年を育成・指導する立場にあるおとな(企業でいえばリーダー、学校・家庭教育では教師と親)に対しての責任を、強く問うていました。

 

 のちに「モンスター・ペアレント」などという言葉が生まれる異常事態を、明治生まれの松下が想像していたかどうかはわかりません。しかしその考え方は、これからの日本の教育再建における一つの思考軸として、参考にしていただけるのではないでしょうか。

 

 過去に導入され、社会問題化した「ゆとり教育」なども、個性の重視という点では、松下の考え方と一見似通っているようにみえるものの、実際はまったく相容れない根本的相違があります。いま深刻な問題となっている「いじめ」問題についても、その陰湿さは許しがたいものがありますが、そうであっても、おとな側の責任を、やはり松下は厳しく問うたことでしょう。

 

 以下に、松下が青少年育成について、みずからの考えを端的に示した論考2編をご紹介します。松下が願った日本の教育のあるべき姿が見えてくる内容となっています。 

PHP研究所経営理念研究本部

 

おとなの責任を果たそう

 (前略)いつの時代でも、その時々の社会を支え、子供の躾、教育にあたるのはおとなたちである。青少年は、その時々のおとなによって教え、躾けられて成長し、次の時代を担っていく。だから、子供に対するおとなの責任というものは、いつの時代においてもきわめて重い。

 

 もしおとなに“いまは時代がちがうから、どのように子供を育てていいかわからない”とか、“あまりきびしく言わなくても、大きくなればひとりでに事の道理はわかるだろう”といった、あいまいで、あやふやな態度があるならば、それはおとなとしての責任を放棄した姿ともいえよう。

 

 そうしたことからも、いま私たちは、改めて子供たちに人間としての規範を教え、躾けることの意義を見直し、その内容を、人間としてのあるべき姿、理想像にもとづいて明確なものにしていかなければならないと思うのである。

 

 今日のわが国において、規範教育、躾が十分でないことの要因としては、教え躾けるべき内容があいまいになっていることとあわせて、社会全体に、いわゆる甘えの傾向が強くなっていることもあげられよう。

 

 私たちの社会は、昔とくらべると物もずいぶん豊かになり、生活もそれなりに安定してきている。そうなれば、当然のこととして生きるうえでのきびしさ、苦しさを味わうことも少なくなるから、どうしても考え方が甘くなるという一面が生じてくる。そうした傾向がこの二十年ほどの間に、日本全体としてかなり強まっているように思われる。

 

 しかもそうした傾向に加え、わが国には、戦後に入ってきた民主主義が一部誤って解釈された結果、自己中心の勝手主義ともいうべきものが広まっている。つまり、民主主義のもとでは、各人の自由、自主性を尊重することが大事だ、ということが言われるあまり、誰が何をしようと勝手だ、他人からとやかく言われることはない、といった自分勝手な姿が少なからず見られるようになっている。

 

 そのようなことから、子供の教育や躾についても、甘くなってしまって、たとえば、子供が勝手放題をして他人に迷惑をかけても、それをピシッと指摘してたしなめ、正しいあり方を指導していくということが適切になされない。そんな姿が家庭でも学校でも多く見られるのではないだろうか。

 

 そうした態度についても、私はきびしく反省する必要があると思う。さもないと、甘えの風潮はますます社会全体につのって、日本が国としてたちゆかなくなる危険性も大きいような気がする。

 

 (中略)今日のように豊かな暮らしの中で、ムリして働かなくても何とか食べていける、欲しいものはだいたいが手に入るという生活を続けていると、ともすれば心身がなまってきて、ちょっとしたきびしさにも耐えられない、ひ弱な体質になってしまいがちである。それは子供にかぎらずおとなでもそうだと思う。

 

 それだけにお互いの生活が豊かになればなるほど、まずおとな自身がみずからの甘さを反省し、子供に対する躾、教育を意識してきびしくしていく必要があろう。そうでないと、子供の自主独立の精神も育たず、ひ弱な人間が増えることになって、社会全体としての発展も期し得ないことになってしまう。

 残念ながらそうした兆候が、今日のわが国にはかなり見られるのではなかろうか。

 

 ただ、そうはいっても、きびしく躾けようとするあまり、何のために躾けるのかという肝心の目的が忘れられてしまっては、いわゆる“角を矯めて牛を殺す”ようなことになってしまう。

 躾の目的は、何も人間を窮屈にするためではなく、あくまでもその人を幸せにするところにある。だから、きびしく躾けて、その人をゼンマイ仕掛けの人形のように、一つの型にはめこんでしまうというのではなく、その人間性が生き生きと発揮され、その天分や個性が存分に伸ばされるような躾でなければならない。そこが大切なところで、そこにこそ人間的な躾・規範教育のほんとうの意義があるように思う。

 

 そうした意味でも、子供の躾、教育にあたっては、おとな自身が、人間として大切な基本は何かということを、しっかりつかんでいなければならないと思うのである。

 それは結局のところ、子供の躾のためには、まずおとな自身の躾が先決ということであろう。昔からよく“子を見れば親がわかる”というが、子供に適切な躾ができていないということは、とりもなおさずその親自身に躾が身についていない、ということである場合が多いように思われる。だから、今日の私たちには、子供に対する躾だけではなく、自分自身や、おとな同士の躾をあらためて見直すことが、求められているといえよう。

 

 私たちが一人の人間として、あるいは一社会人としての適正な躾を身につけていくとき、これを基盤として人間としての美しく正しい行動が生まれ、自分も他の人も満足できるような好ましい生活態度があらわれてくる。また社会全体としても、そういう人びとの態度が広く養われることによって、自由にして秩序ある姿が生まれ、それが社会の生成発展をもたらして、より程度の高い文化生活を営むことができるようになるのだと思う。

 

 (中略)今日のように青少年の間にいろいろと問題が生じているということは、その責任の大半が、青少年ではなくおとな自身にある、ということであろう。そのことを私たちは、明確に自覚、反省し、事態の改善に早急に取り組まなければならないと思うのである。

『学校教育活性化のための七つの提言』(PHP研究所) 

 

青少年教育において大切なこと――もっときびしさを 

 (前略)元服の際に切腹の作法まで教えてきたのがわれわれ日本人の先祖である。そのようなことをしてこの日本の小さい島国を守ってきた。そういうきびしい躾、教育を行なってきたからこそ、日本は戦争に負けてもやはり厳として国家を守り、急速な進歩発展をしてきた。しかし、戦後の日本の再建には一定の方針がなかった。ともかく一生懸命に働かないといけないといって、長年の習慣によって働いてきた。そして今日、経済大国になった。

 

 戦争に負けた直後、日本の三十年先はこういう国にするのだという計画をたててやったのではない。やってみたらこうなっていたということである。これではいけない。五十年先、百年先にはこういう日本をつくろう、そして世界に対してはこういう奉仕をするのだ、そのためにはこういうふうな教育をしなければいけない、おとなといわず子どもといわず、ぜんぶの国民の再教育をやらないといけない、というようにやらなければならないと思うのである。

 

 今の日本には、すべての面にこわさがない。きびしさがない。みんなこわさを知らない。昔であれば、一つ失敗すると腹を切った。こわさがあるわけである。今はそうではない。どんな失敗をしても平気である。そこに問題がある。

 だれか一発ガンとやる人があればいいけれども、だれもガンとやらない。成功しようが失敗しようが同じである。

 失敗すれば、これは大変だ、場合によっては腹を切らないといけないと自分で考えたり、また腹を切れといって叱る者がいるとかいったことが今はない。みんなお互いにやさしくいたわり合っている。そういうところにきびしさがない。

 

 何度もいうが、昔の武士は十五歳の元服のときに腹を切ることを正式に習ったが、今は二十歳になって成人したら、酒の一杯でも飲もうか、というようなことになる。腹を切るようなことは教えない。昔は十五歳になったら、いつでも一切の責任を負って腹を切る覚悟をさせられた。これは今日でも、また別な新しい形でそういうことが必要ではなかろうか。

 

 今日はみんなが甘えている。昔は責任者であれば責任を追及された。だからいつでも辞表を出すという考えをみなが持っていた。今は少々失敗してもやめる人はいない。やめさせもしないし、自分からもやめない。非常に結構な世の中である。それで永遠にうまくゆくなら本当に結構だが、しかし後で必ずその甘えのツケがくるわけである。

 だからわれわれは、お互いにもっときびしいものをもたなければならない。そういうきびしさへの意識転換というか、心構えの転換が、今日の日本人にとって、最も大切なことの一つではないかと思うのである。

『日本はよみがえるか』(PHP研究所)

 

参考図書

 松下の「教育」に関する考え方を収録した商品(現在発売されているもの)として、以下のものがあります。 

親として大切なこと

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遺論 繁栄の哲学