最近、手形が濫発されているが、手形はいわば私製紙幣である。いくら政府が通貨の発行を適当に押さえても、手形の発行がそのままではその効果は上がらない。またもし、このまま進めば、物を買ってもその支払いに関する義務観念がますます薄れ、商道徳の頽廃にも結びついていくのではないか。

 

手形は私製紙幣である

発表媒体

『文藝春秋』1965年1月号 「私製紙幣と経済危機」

 

内容抄録

 だいたい、紙幣を偽造したりすれば、これは国家の秩序を乱す重大犯罪として重い罪に問われる。だから、よほどの変質者でないかぎり、まずこういうことを企むものはいない。そこで、日本で通用するお金の量というものは、日本銀行の思うように増減できるわけで、経済界の実情にあわせて、五千億円とか一兆円とか、大体の目安をつくって発行しているのである。つまり、金融引き締めにあたっては、日本銀行はそういうことを考慮に入れて操作するのである。

 ところがここに重大な問題がある。それは、日本の通貨が、日本銀行の発行しているお金だけなら、今述べたような操作も大いに効を発するわけだが、わが国の経済界においては、実は日銀券に代わるような、いわば私製紙幣というものが、白昼堂々と横行しているのである。

 

 もちろん、私製紙幣といっても、法にふれるような偽造ではない。それは何か? というと、手形というものである。私はこの手形というものは、まことにおかしな経済界のクセモノであると思う。

 むろん手形は、日銀券ほど完全には通用しない。しかし、現実に各企業は手形で物を買っているではないか。現金がなくても、手形を書いて社長がハンコを押せば、もうそれで日銀券にかわる力を発揮して、物が買えるのである。だからいくら政府が、一方で通貨の発行を適当に抑えても、手形という名の私製紙幣が、ドンドンとランパツされて、引き締めの効果はあがらない。しかもその手形は、期間が相当長くなってきているのである。

 

 こうした姿はいいかえれば、今日のわが国には準日本銀行が何万行となくあって、それぞれ無統制に、準日銀券をどんどんランパツしていると言えはすまいか。考えてみればこれはおそろしいことである。もしこのままで進むならば、物を買ってもその支払いに対する義務観念がますますうすらぎ、それが道義の頽廃にむすびついてくると思う。

 お互いにこのおそるべき事実を素直に認識し、この経済界の特異な風潮に毅然として立ち向かう心がまえを、しっかり持ち直さなければならないと思う。