みずから何もせずして、ただ神仏にご利益を願うというようなことは、人間としてとるべき態度ではないと思う。また、そんな都合のよいご利益というものはあり得ないだろう。しかし、人間がほんとうに真剣に何かに取り組み、ぜひともこれを成功させたい、成功させねばならないと思う時、そこにおのずと何ものかに祈るというような気持ちが湧き起こってくるのではないだろうか。
『指導者の条件』(1975)
解説
「祈る」ということ、そして“拝む”“願う”“信じる”といった行為を、昨年(2011)の3月11日以後、日本人はより意識するようになったのではないでしょうか。心を“かたち”にする、そうした人間らしい行動の原理に、松下幸之助は、強い関心と独特の視点を持っていました。祈りについて、幸之助は自らのPHP研究における質疑応答のなかで、こう定義しています。
「祈りは、自分の心を清純にして、小知小才に頼らず、素直に、与えられた自分の生命力を完全に生かしきるために行うのだと思います」
またPHP研究の基点となる書『PHPのことば』(1953刊)には、「特別にお祈りをしたからといって、とくにその人だけに恵みが多く与えられるわけでもなく、またお祈りをしないからといって、恵みが与えられないというわけではないのであります。このように考えるのは、人間の得手勝手な独断で、天地の恵みは、小さな人間の知恵を超えて、すべての人に平等に、さんさんとして降りそそいでいるのであります」とも記しています。
これらの記述をみるに、「自分の生命力を完全に生かしきる」ことが人間(の目的)であり、その時々において自然とお祈りをするのが人間(の本質・本性)だと幸之助は考えていたようです。そしてこのような人間を探求し続けた“哲人”と同一人物の中に同居した“経営者”としての幸之助は、神仏や天地自然に「祈る」だけでなく、自分の部下、社員にも頼む・願う・拝むことが必要だといいます。
「(社員が)一万人、二万人になれば、“そうしてください、こうしてください”ではすまされないと思います。“どうぞ頼みます、願います”という心持ち、心根に立つ。そしてさらに大を成して五万人、十万人となると、これはもう“手を合わせて拝む”という心根がなければ、とても部下を生かしつつ、よりよく働いてもらうことはできないと思うのです」
さらにはこうした“心根”が経営者にあると「同じ言動であってもその言動の響きは違ったものになり」、その“心根”がないと社員の働きは「鈍くなって大きな成果も得られない」と著書『商売心得帖』の中で述べています。つまりは、部下の数が増すほどに、事業への真剣さを増し、心持ちにおいては謙虚さを増さねばならないということを、幸之助は自己の体験から説いたのです。
幸之助のこうした考え方は、フラットな組織づくりによる人材の活性化を最重要課題の一つとしている現代の企業経営において、十分に参考になるものといえるでしょう。そしていつの時代においても、組織をつくり組織を動かすのは、結局は“人”なのですから、組織のリーダーの資格として、幸之助がいうこの“心根”の有無が、良きリーダー・悪しきリーダーを見分ける“試験紙”になると考えていいのではないでしょうか。
学び
目に見えないものに対する、自らの心の持ち方はどうか。
人の心に対する、自らの心の持ち方はどうか。いま一度見直してみたい。