いくらでも道はあるからな。悪い世の中になったら、これはこれで悪い世の中も面白いという考え方もあるわな。自分はもう自殺しようという人もあれば、こんなに悪いんやったらよくしてやろうと、どれだけよくなるだろうと。よくなる道を考えようと、勇気凛々としてやるという人の、二とおりあるな。それでわしは、あとのほうに入ったんや。

リーダーになる人に知っておいてほしいことⅡ』(1983)

解説

 今回の言葉は、松下政経塾生との質疑応答において、松下幸之助が“人生で窮したときにどういう心がまえで臨んできたかについて尋ねられ、応答した中からのものです。

 

 幸之助は元来病弱でした。きょうだいも早死にしています。独立開業前の大阪電燈勤務時代には、肺尖カタルという病気にかかり、休養をとりつつ身体を気遣いながら仕事をするといった状態が続いていました。実際に“こりゃ死ぬんじゃないか”と考えたこともあり、“生きる”という面では追いつめられていたといえるでしょう。しかし逆に“死なば死ね、これも運命”という一つの諦念をもてたことで、それからは不思議と病気が悪化しなくなったといいます。生きることに執着しつつも執着しない、そんな生き方を身につけた幸之助は、病とうまくつきあい、病を味わって生きることで、94年の長寿を得ることになります。その幸之助が健康面以外でもっとも追いつめられた局面といえば、やはり太平洋戦争後の混乱期です。思うように事業活動ができず、自殺してもおかしくないほどの困難に遭遇した中で、幸之助はPHP活動、世の中の物心両面の繁栄を願う、いわば精神復興運動を発意・開始します。“大将は気がふれたんじゃないか”と思ったと、当時を振り返る松下電器の側近もいるほどでした。みなが食べるのに精一杯で、他人のことなど考える余裕もない時代でしたから、さぞかしムダで無意味な行動だと思った人もいたことでしょう。

 しかし幸之助は信念をもって、さまざまな場でPHPの考え方を訴えていきます。たとえば東本願寺や西本願寺といったお寺に出かけてお坊さんを相手に「この混乱期にこそ、宗教が巷に出て行って、人々の精神を救う活動をしてもらわなければいけない。自分は電器屋として、商品の“カタログ”をつくり、それで商品の利便を知らせた。いわば“教え”を出して、無縁の人に送り、モノをどんどん売ったのだ。仏教はというと、檀家さんや信徒さんといった有縁の人がたくさんいるのだから、その人たちに対して教化する役割をもっと果たすべきではないか……」と説いています。もちろん、そうやすやすと幸之助の主張が受け容れられたわけではありません。けれどもそこで、幸之助は終わりませんでした。“それならば、自分が世の中をよくしてやろう”とさらに決意を固めて活動の幅を広げていったのです。

 

 世相が乱れ、人心が荒んでいく時代に、たまたま生まれあわせた。これも運命。ならばその時代を恨むのでなく、世の悪に殉ずるのでもなく、世の中をよくする道を選択した。世のために自分はなにができるかと考えたときに、PHPというみずからの心に芽生えた哲学を徹底研究し、世の人々に問うて、社会を変えようと決起した。社会がPHPの考え方を必要とするかぎり、この運動の輪は広がり、世の中全体もよくなっていくはずだ……。“松下幸之助”という存在を正しく認め、その人生に学ぼうとするとき、決して見逃してはならないのが、今回の言葉の奥にある幸之助の真情といえるでしょう。

学び

道はたしかにいくらでもある。

しかしどうせなら、世のため人のためになる道を選びたい。