昔から“山に入る者は山を見ず”とかいいますが、山の本当の姿は、あまり山の中に入りすぎるとわからなくなってしまいます。山の中にはいろいろな草木もあれば、石ころもある。それらも山の一部ですが、しかしそれだけが山の姿ではありません。山の全貌を正しく知るには、やはりいったん山から離れて、外から山を見るということもしなければならないと思うのです。お互い人間の心についても、これと同じことがいえると思います。

素直な心になるために』(1976)  

解説

 「いったん山から離れて、外から山を見る」。この「人間の心」の操作を、先のコラム(22回)でもご紹介したように、松下幸之助は“自己観照”と表現し、日々実践を試みていたといいます。

 内省や内観、自省といった言葉が類似のものになりますが、こうした心を磨くことを、元来日本人は得意としてきたのではないでしょうか。たとえば、日本の伝統精神に重要な影響を及ぼした仏教や武士道、茶道といったものは、その修行の根底に、みずからの心・精神を高めることが求められます。柔道、剣道、弓道なども、技だけを競う単なるスポーツではないから、“道”がつけられるのでしょう。

 “武士道とは死ぬことと見つけたり”で有名な『葉隠』には、「常住死身」とあります。武士にはふだんから“死人”として生きることが望まれるのです。死人になれるよう、日々精進するわけです。仏教、とくに禅宗の修行では、無我の境地に達することを目指すといいます。“私ではないもの”になるのです。柔道を創始した嘉納治五郎は、その精神の根本に“自他共栄”を掲げました。競いつつもともに栄えるために、稽古をするのです。いずれも「心」の修練なくして達成されるものではありません。

 そして幸之助は、商道、経営道、さらには人間道を極めようとしました。その“道”を歩むうえで欠かせない修行の方法が、自己観照だったといえます。さらにいえば、自己を観照するという心の修練に欠かせないものこそ、幸之助が生涯求め続けた“素直な心”だったのです。 

学び

自分から離れる。

そして、自分を観る。