初期のPHP研究所では、活動資金を獲得するため、停電時の非常灯「ハピーライト」を販売しました(写真)。『PHP』昭和23(1948)年2月号40頁では、「今日の生活を現実に豊かにする文化用品」の「第一回」として、これを販売すると記してあります。定価は460円(現在の価値で約7600円)、一般の電器店で販売するほか、直接販売も行いました。
この商品は次のような経緯で発案されています。まず、昭和22(1947)年7月17日、松下電器社員の河西辰男氏がPHP研究所東京事務所(※1)を訪れました。河西氏は、のちに松下電器客員となって、PHP研究所のゼミナールでも活躍した人です。
『東京PHP運動概況報告』という資料には、「河西辰男(松下社員)提案」として、「電力不足に設(そな)えて節電運動として抵触光電球使用運動を起しては如何(いかん)」と記されています。PHP研究所の利益になり、社会改善にもなるとし、記録には「此(こ)の運動は満州に於て実験ずみにして大成功を収めたものである」という河西氏の言葉が残されています。
また、当時のPHP研究所の顧問に橋本元三郎という人がいました。戦時中に企画院という内閣直属の官庁に勤めた人であり、同年7月19日に東京事務所を訪問し、「裸電球の再生機の販売及(および)技術指導」を提案しています。松下電器の「代理店網の利用による普及は極めて有意義なり」と述べていて、停電が多かった終戦直後の事情をくんだ上での発案でした。
これらの意見を検討し、昭和23(1948)年1月8日、PHP研究所は「ハピーライト」の販売を開始しました。しかし電気事情が急速に回復して停電が少なくなったため、売行きは思わしくなく(※2)、「文化用品」の「第二回」は、企画されなかったようです。
1)PHP研究所東京事務所は、東京でPHP運動を行うため、昭和22(1947)年3月15日に開設されました。住所は当時の表記で「東京都中央区銀座西六丁目五」、松下電器の「東京支店支配人」であった松野幸吉氏が所長を兼務し、当初は木田達彦所員がほぼ一人で活動を行っていました。昭和24(1947)年11月21日、「東京都港区芝田村町六丁目七」に移転したのち、昭和25(1950)年8月ごろ、PHP活動の縮小に伴い、廃止されたと考えられます。
2)『PHP所史』ファイル、昭和23(1948)年2-1、1頁、金森重貫氏宛の手紙にその旨が記載されています。手紙の発送者は「良和」と署名。金森重貫氏は東本願寺の布教師で、PHP運動では『PHP』を普及する「普及委員」を務めた人です。