松下幸之助は、松下電器産業株式会社社長として、昭和25(1950)年7月17日「緊急経営方針」を社員に発表しました。「朝鮮の嵐が身近に吹きすさぶ現状」(=朝鮮戦争)を踏まえて、「私自身がPHP運動を外部に呼びかけることをやめる」と言い、「理念の研究は永遠に続けるが、労作の情熱のすべては、(松下電器の)経営に尽くしたい」と述べています(『松下幸之助発言集』第22巻所収)。


 同年8月15日には、月刊誌『PHP』の発行所名義が「PHP友の会本部」から「PHP研究所」へ変更され、同年8月25日に幸之助が、顧問の三辺長治、矢部貞治両氏に宛てた手紙には「この運動も所期の目的への第一段階を終え、いよいよ第二段階にはいるべき時期に到達したものと愚考し、八月一日をもって、PHP友の会本部をPHP研究所に吸収し、ひたすら研究に邁進することゝと致しました。それで、PHP定例研究講座を一時中止し、基本理念の確立を待って、新たな構想のもとに再開致すことにしたのでございます」(所長発信簿)と書かれています。それまで十数名いた所員は4名となり、70~80頁あった『PHP』も同年9月発行の第41号より32頁の構成になりました。

 これらの変更に対し、PHP友の会各支部からさまざまな反応が寄せられました。奈良県支部の伯田五六支部長は、PHP研究所を訪れて状況を確認しており(※1)、毎月欠かさずPHP懇談会を開催していた京都の伏見支部では「いさゝか動揺の徴」(※2)があったようです。また「友の会本部の名称がなくなったのなら、各地にある友の会支部の名称は......研究所支部にすべきか」(※3)という問い合わせもあり、研究所は、これまでどおり各支部は「友の会支部」という名称でよいとし、「従来の友の会本部の業務を(研究所で)引継いでやっております」と応えています。

 翌昭和26(1951)年1月発行の『PHP』第44号では、研究所の新年の目標として「会員のより一層の増加をはかること」(※4)が掲げられ、前出の伯田氏は同第47号で、「一人に付(つき)五人の会員募集を行って、このグループの増加運動を起こしてはいかがでしょう」(※5)と提案しています。朝鮮戦争という有事に際して、当初は一部の会員に動揺も見られましたが、その後は所員も友の会会員も、PHP運動の「第二段階」を積極的に展開することを考えていたようです。

 


1)『PHP』第42号(昭和25〔1950〕年10月発行)32頁。
2)同上。
3)『PHP』第43号(昭和25〔1950〕年11月発行)32頁。
4)『PHP』第44号(昭和26〔1951〕年1月発行)32頁。
5)『PHP』第47号(昭和26〔1951〕年5月発行)47頁。第47号から48頁の構成となり、以後しばらくは50頁前後の構成となっています。