戦前から松下幸之助と交流した平井泰太郎氏は、明治29(1896)年10月、神戸市生まれ。父の経営する紡績会社が業績不振のため他社に吸収合併されたことが、経営学を志すきっかけになりました(※1)。東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業後、イギリス、アメリカ、ドイツ、イタリアに留学し、神戸高等商業学校(現神戸大学)の教授に就任しています。
昭和7(1932)年1月から2カ月間、NHKのラジオ番組『公民常識講座』において『経営学』を毎週木曜日に放送し、大きな反響を呼びました(※2)。同年末、松下電器が家庭電化への要望について一般から懸賞論文を募集した際には審査員を務めており(※3)、おそらくこの時から幸之助との交流が始まったものと思われます。
初期PHP友の会では、平井氏は友の会本部の「顧問」を務めています(本部役員名簿)。PHP研究所は発足当初、「経営経済研究所」という名称であり、平井氏はドイツ留学で「経営経済学」を学んでいました。
昭和22(1947)年2月14日、松下電器社主室で開催された第70回PHP懇談会には、平井氏とゼミ生、松下電器勤務のゼミのOBが参加しました(※4)。『PHP』の編集長を長く務めた錦茂男氏は、門下生として出席が記録されており、翌月に研究所初の新卒採用として入所しています(※5)。
昭和26(1951)年に日本で最初の経営学博士になり、新政治経済運動では関西の常任世話人として活動しました。機関誌の『新政経』に連載した「天眼鏡」というコラムを採録して、昭和36(1961)年8月に『経営百話 この壁を破れ』を出版すると、幸之助から質問が寄せられたと述べています(※6)。
真々庵における研究活動再開後は、昭和37(1962)年7月11日に来所した記録があります(業務日誌)。「日本のトップ企業シリーズ物を出版」するため、幸之助に協力を依頼しており(松下会長日誌)、懇談後は所員と昼食を共にしました。
昭和44(1969)年に勲二等瑞宝章を受章し、昭和45(1970)年7月に死去。没後に幸之助は、平井氏との思い出が「あまり多いのでかえって(何を書いていいか)わからない」とまで言っており、その人柄は「近年まれに見る熱心な人であった」と回想しています(※7)。
1)平井泰太郎先生追悼記念事業会編・発行『種を播く人』(1974年)46頁。その他、平井氏の略歴は、市原季一「平井泰太郎先生の訃」『平井泰太郎経営学論集』(千倉書房、1972年)も参照。
2)平井泰太郎『経営学の常識』(千倉書房、1932年)序1頁。放送は、大阪中央放送局から行われ、主に西日本でのみ聴取可能でした。放送の反響については、平井泰太郎『<第二経営百話>専門家しろうと』(日本事務能率協会、1964年)249~250頁。
3)松下幸之助『道は明日に』(毎日新聞社、1974年)84~86頁。
4)『懇談会記録綴』「第70回懇談会記録」。
5)『業務日誌 昭和21年9月~昭和22年8月』90頁。記録によると、3月10日づけで入所になっています。錦氏自身の回想は、石山四郎/小柳道男・編『《求》松下幸之助経営回想録』(ダイヤモンド‐タイム社、1974年)293~294頁。
6)前掲、『<第二経営百話>専門家しろうと』264頁。
7)松下幸之助「まれにみる熱心な人」、前掲『種を播く人』39~40頁より。