研究活動を再開して後、松下幸之助が初めてタイムの取材を受けたのは、昭和36(1961)年9月25日、松下電器東京支店でのことです。「タイム社、極東支配人、ドナルド・コネリー氏に面会」(松下会長日誌)と記録があり、約25分間取材を受け、「近日中(に)大阪で面会し話しをするという約束をし、別れた」と書いています。

 

 翌昭和37(1962)年1月6日、コネリー氏は西宮の光雲荘を訪れました。幸之助は、「用件は自分を中心に日本の記事を書きたいとのことで見えた。いろいろ自分の話しを聞いた」(松下会長日誌)としています。同年1月9日にコネリー氏はPHP研究所を訪問し、15時10分から17時55分まで懇談しました(業務日誌)。

 

 さらに昭和37(1962)年1月14日には、タイムと文藝春秋の記者が幸之助の写真を撮影するため、洗濯機工場を訪れました。幸之助は「1時間半ほど2社の写真班につかまえられたので、大分疲れた」「この点映画俳優などは、玄人であるからなれていると思う……映画俳優はえらいものだと思った」(松下会長日誌)と書いています。さらに同日の「夕方、西宮宅に、タイムの写真(担当記者)がきて、(松下正治)社長、家族ともども写真をとられた」と記しました。

 

 翌15日、「今朝も西宮宅へタイム、文春とも写真をとりに来た」「9時30分から1時間文春に時間を割き、茶室やその他さまざまな写真をとった。10時30分頃からタイムの写真をとり、昼頃までかかった」(松下会長日誌)としています。また、その時の様子について「タイムの写真記者は婦人で、……香港に駐在」しており、幸之助がお茶を一服勧めたところ、「今日はビジネスできているから、差支えなければ遠慮したい」と言われ、「そういうところに、アメリカの一つの特色があるように思い、感心した」と感想を残しています。

 

 これらの取材の後、昭和37(1962)年2月23日、幸之助を紹介した『TIME』が発刊されました(写真)。翌24日、「ハウロー氏」が、『TIME』とその表紙絵にもなった堅山南風氏の筆による幸之助の肖像画を贈呈するため、松下電器本社を訪ねています(松下会長日誌)。

 

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同『TIME』p.57(部分)