昭和42(1967)年11月、京都駅八条口にPHP研究所のビルを構えて以降、松下幸之助は月におよそ5~10回の頻度で来所していました。昭和44(1969)年の2月は体調不良だったため、療養を優先しています。
その後も1年以上、特に多く来所することはなかったものの、同年8月から研究会の回数が増え、「人間宣言」(=後の『人間を考える』)の研究が本格化しています。
昭和46(1971)年3月18日には、もっと思索する時間が欲しい(※1)ということも理由の一つとして、PHP研究所の所長を退任しました。同年5月には1度も来所した記録がなく、京都東山山麓に真々庵を設けて以降、体調不良以外で1度も来所がなかった初めての月となりました。
1)「これからは、ひとつもっと思索する、僕個人として思索するね、時間がほしいと思うんですよ」(速記録№1260)。幸之助は、後の昭和51〔1976〕年1月にPHP研究所所長に復帰しています。