昭和46(1971)年3月18日、松下幸之助はPHP研究所所長を退任しました。以後は『人間を考える』の推敲に尽力し、同年12月8日に脱稿以降は、2年ほど体調を崩しています。錦茂男氏が第2代所長に就任し、昭和49(1974)年8月15日まで務め、その後、所長は空席のままでした。

 昭和51(1976)年1月9日に幸之助はPHP研究所に来所し、所員の前で所長復帰のあいさつをしました(録音№5101)。「実は、もう所長をやるというつもりはなかって、(けれども)皆さんのうちからですな、そのうちに(また所長を)やってもらえると、こう思うとった(と言われた)」と説明しており、所長復帰は所員からの強い要望で実現したことがうかがえます。


 「11月3日は創立30周年にあたりますので、30周年の記念行事として記念出版物を出したい」とも言い、後の『私の夢・日本の夢 21世紀の日本』の構想を語っています。「出版物をもってそれを発表することを記念行事の中心にしてやりたい」とも述べました。


 翌10日、松下電器で開催された昭和51年度経営方針発表会では、「声帯にやっぱりその衰えをきたしておるのか、どうもものを言うのが言いにくい」「なるべく話をしないようにしている」と言っています(録音№1516)。しかし同月26日、PHP研究所におけるこの年初めての研究会では、「これから原則として、月と火、週に2回ずつ研究会を行なう」(研究日誌)と意欲を語っています。