大正七、八年ごろ、ソケットやプラグ、扇風機の碍盤の材料はアスファルトや石綿、石粉などを調合してつくる煉物といわれるものであった。その煉物の技術は、今でいえば企業秘密、多くの工場では、技術が外にもれることを恐れ、工場主の兄弟とか親戚などにしかその製法を教えていなかった。
しかし、幸之助は当時一般的であったそうした行き方をとらなかった。
"煉物の技術を秘密技術として見ていくことは、製作するにあたって、秘密が外にもれないようにと、それだけよけいに気を使わなくてはならない。これはまことに能率が悪い。それに、同じ工場で働く仲間同士のあいだに秘密があって果たしてよいものかどうか"
幸之助はいろいろ考えた末、一つの結論を出した。つまり、思い切って製法を身内だけの秘密にするのはやめ、新しく入った者にも教えることにしたのである。
すると、ある同業者が幸之助の行き方を見て言った。
「松下さん、あなたのやり方はまことに危険だ。新しく入った人にまで製法を教えるということは、それはもう技術の秘密を公開するようなものだ。そうすると同業者も増えかねない。お互いのマイナスにもなり、松下さんのマイナスにもなるのではないですか」
それに対して幸之助は、
「そう心配はいらないと思います。その仕事が秘密の仕事ということを話しておけば、あなたが恐れるほどむやみに裏切って、みだりに他へもらしたりするものではないと思います。要は、お互いに信頼をもつことだと考えます。
一つのことにとらわれて、いじましい経営をするのは、事業を伸ばすことにつながらないばかりか、人を育てる道でもないと考えていますから、そう好んで公開するわけではありませんが、この人はという人であれば、きょう入った小僧さんにでも技術を教えていくつもりです」
と話した。
するとその人は、「そういう見方もあるのかね」と、半信半疑の体であったが、実際、技術を公開してからの幸之助の工場は、気分的に明るくなり、みな生き生きと働くようになった。