松下電器が九つの分社に分かれていた昭和十一年のこと。その分社の一つ、松下乾電池株式会社で、その年に配属された新入社員、三十五、六人が集められ、幸之助を囲む懇談会がもたれた。

 そのとき、何か感想があれば言ってほしいという司会者の言葉に、一人の新入社員が立ち上がって言った。
「私は会社をやめようと思ったんです。今からでは行くところもありませんので、まだいますけど、松下電器はエゲツない会社やと思います」

「どうしてや」と問う幸之助に、新入社員は、自分はアマチュア無線のライセンスをもっていて、できたら無線関係のところに入りたく思っていたこと。松下無線株式会社の専務が自分の学校に求人に来たので、てっきり松下無線に入社できると思っていたところが、案に相違して乾電池にまわされてしまったことを説明し、ひどいやり方だと思うと述べた。それは、率直な気持ちであった。

「それで、今きみは何をしてるのや?」
「調合場で真っ黒になって実習しています」
 調合場は、乾電池の中味である黒鉛や二酸化マンガンなどを調合するところで、当時は、手も顔も作業服も真っ黒になる最も汚れの激しい仕事場の一つであった。

「それは考えと違ってえらいところへ来たな。しかし、松下電器というのはええ会社やで。きみ、わしにだまされたと思って十年間辛抱してみい。十年辛抱して、今と同じ感じやったら、わしのところにもう一度来て、頭をポカッと殴り、『松下、おまえは、おれの青春十年間を棒に振ってしまった!』と大声で言ってやめたらいいやないか。わしは、たぶん殴られんやろうという自信をもっておるんや」

 二十年ほどのち、その新入社員は乾電池工場の工場長になった。